第25話 9月13日、弟との再会
その日は、“救え、一番に弟に会いに行け”とハリスが指定した日だ。
ハリスの弟であるロンド家の次男。次男はメリルの家から200キロ以上離れた所に住んでいた。生前から兄ハリスが、将来を案じて気にかけていた弟だ。メリルも弟に会うのは10年ぶりだろうか。
久しく会った弟はだいぶ風貌が変わっていた。どちらかというとハンサムでお洒落だった弟が、身なりなどどうでもよいといった風だった。でっぷりとだらしなく突き出たお腹は30代とは思えなかった。それは、ここ10年の間に患っているという糖尿病のせいだけではないだろう。
メリルは笑顔で再会の挨拶をした。弟は少し緊張をしているようだったが笑顔で応じてくれた。メリルは、ハリスの葬儀以来であろうマリアと、新しく夫になったジョージを紹介した。取りあえず四人は、弟の家の近くにあるファミリーレストランで食事をしながら話そうということになった。
メリルは弟の近況を訊いた。糖尿病だけでなく精神科にも通っているという。それは、うつ病からはじまって、強迫観念症、パニック障害、統合失調症というあらゆる病名を伴うものだった。弟はメリルたちと食事をしている間も、落ち着きなく何本も煙草に火をつけた。
弟は不意にロイ・カーチスの名前を口にした。数年前たまたま知り合いと車を走らせた先が、かつて自分たちロンド家が暮らしていた故郷の近くだった。弟は、同い年で従兄のロイのことが懐かしくなり、カーチス家にロイを訪ねた。そこでロイの死を聞かされたと。
メリルは、弟にロイの生前の様子を語って聞かせた。弟は、何故ハリスやロイのように良い奴が先に亡くなるんだ、と呟いた。親父のような人間がのうのうと生きているのに、とも。
メリルはジミー・カーチスのことも語ってきかせた。やはり弟もジミーとは面識がないと言った。しかし、ロイの弟ならよく覚えていると言った。
ロイの弟であるカーチス家の次男は、やはり精神を病んで、それがもとで離婚をし、現在は実家であるカーチス家に出戻り治療中だ。到底、誰の目からみても、ロイに代わってカーチス家の家督を継げるような状態ではなかった。メリルの話を聞いていた弟が、俺もロイの弟も同じ有様か、皮肉な話だな、と呟いた。
メリルは、さっきから気になっていたことを弟に問うた。
その左手首に巻いている黒いアームバンドのようなものは何なのか?と。弟は、手首を切った痕だと答えた。メリルは、やはりそうか、と思った。
弟は、数日前から今度こそ本当に死のうと考えていた、と。そこに姉メリルが会いに来ると聞いて、取りあえず死ぬ前にもう一度姉の顔を見てからでも遅くないと思い返した、と言った。
メリルは、ハリスが一番最初に弟に会いに行け、そして、9月13日と期限をきった意味はこれだったのか、と確信を得た。メリルは、弟に生きていてほしいと懇願した。肉親を失う悲しみは、ハリスひとりでもう充分だと。ハリスの分も生きなくちゃと。そして、メリルはあらためて、ハリスやロイ、ジミーの死に触れた。三人ともが長男であることに。これを偶然だと思うの?と弟に訊いてみた。弟は、わからないというように黙っていた。メリルは意を決して、偶然じゃないと話した。次はエイドの番だと。弟は驚いた表情で、しかし言葉が見つからないようだった。メリルは、長男の死の連鎖を食い止めるためにも、バラバラの家族が今こそひとつになる時だと弟に語った。メリルは期待した。弟が死への未練を断ち切って“生きる”と言ってくれることを。そして、これからは一緒に前を向いて頑張っていこう、と言ってくれることを。しかし、弟はうなだれたままだった。それどころか、ハリスの分も生きるだって? ハリスは生きていたくないから死んだんじゃないか、と思いもかけない言葉が返ってきた。メリルは意味が解らず、ハリスが生きていたくないから死んだって?と弟に訊いた。すると弟は、ガスストーブでの一酸化炭素中毒ってことは自殺だろと、いとも簡単に言い放った。あれは事故よ、とメリルは言った。しかし弟は、だってハリスは離婚をして金がなかったんだろう、どう考えても自殺じゃないかと。メリルは愕然とした。そんな筈はない。ハリスはそんな後ろ向きな人間じゃない。負けん気が強くて、野心家で、何があっても茶目っ気を忘れず、前しか見ていない、そんなハリスが自殺なんてありえない。そんなハリスを弟のあなただって知っているじゃない。なのに、何故そんなことが言えるの? メリルは、ハリスは自殺なんかじゃない、と繰り返した。しかし弟は、メリルがそう思いたいだけだろ、と言い捨てた。
そしておもむろに、金はあるのか、とメリルに訊いた。メリルは問いの意味がわからず、不審さを隠さない目で弟を見た。弟は、金さえあったらハリスは死なずにすんだ、と言って、食事中も背中に背負ったままの自分のリュックを指さして、ここに現金で500万円入っている、と言った。この金を取られたらどうしようと思うと心配で心配で、リュックを家の中でも背中から下ろすことができない、と言った。メリルは、そのお金はどうして手に入れたのか、と訊いた。俺の金だ、俺が夜も電気を点けず真っ暗な部屋で過ごし、寒い冬も暖房すら点けないで、1日1食しか取らず、爪に火を灯すようにして貯めた金だ、と弟は言った。メリルはくらくらしそうな思考を立て直して、とにかくこれからは家族が仲良くなっていかなくちゃならないの、と弟に言った。弟は、今さら無理だ。俺がこんな人間になったのは親父のせいなのに、親父は俺をさけているじゃないか、と言った。そこには、言い知れぬ弟の心の傷と悲しみと失望が滲んでいた。メリルは、そうなのよ、この傷を家族全員が今も持っているの、手放せないまま、といたたまれない思いになった。この傷を癒さなければ、家族が仲良くなんてできないのよ、とメリルは思った。メリルは、次は父に会いに行くことを告げて、一緒に行かないか、と弟に訊いた。会ってどうする?と、弟が訊いた。とにかく、会うことからしか何もはじまらないのよ、とメリルは言った。考えておいて、とメリルは言った。メリルは別れ際、絶対に死なないで。生きていて私のために、と弟に言った。そして、ハリスやロイのために祈ってあげて、と。ハリスやロイの声が聞こえるはずよ、と。弟は黙っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます