第8話 ロイ・カーチスの憂鬱

私は驚いて、

「キッシュ、どうしたの?ロイが来るってどういうこと?」

「目が合った、ロイと…」

キッシュは、もう殆ど涙声だった。

「どういうこと?どこでロイと目が合ったの?」

という私の問いに

「部屋の中にロイがいる。部屋には窓があって、窓に向かって最初はボーッと突っ立っているみたいだった。だけど、その部屋のドアのところから私がロイを見ていることにロイが気づいて……こっちを見たの。そしたら、私と目が合って……ロイがニヤって笑ったの」

そう言って、キッシュは恐怖を露わにして、もう一度

「ロイが来る」

と呟いた。


黒猫キッシュの叫びのあと、思いもかけない事態にメリルも私も、当然、黒猫キッシュ自身もだが、混乱と恐怖でおろおろとするばかりだった。

しかし、

「腹を決めるしかないと思うんです!真正面から向き合いましょう!」

と、私は言った。

「向き合うって、幽霊に?」

と、黒猫が訊いた。

「幽霊とはいっても、死んでいるだけで、相手はロイ・カーチスでしょ!」

と、私は言った。

「えっ、でも、あいつ、だいぶ黒くなっているよ。手強いと思うけど……」

キッシュは不安を隠しきれない様子で、小さく呟いた。

「メリルさんは、どうされますか?」

と、私はメリルを見た。

二人の成り行きを見守っていたメリルが、口を開いた。

「私の身内の問題です。当然、私の問題でもあります。私もここにいます!」

黒猫キッシュの予測では、ロイ・カーチスが現れるのはおそらく深夜近くになるであろう、と。それまでの間、メリルと私と黒猫は、思いつくだけの準備と心構え、そして、黒い幽霊に立ち向かうだけのスタミナを備えておく必要があった。

「身を清めるってことも必要かしら?」

と、黒猫が訊いた。

「あっ、良いことに気がついたわね。長丁場になるかも知れないから、今のうちに順番にシャワーを浴びるといいわ!」

と、私。

人生とは、本当に“妙”としか言いようがない。またもや妙なことに巻き込まれてしまった。そして、何よりも“妙”なのが人間の行動だ。人生ではじめて幽霊に会うというのに、こんなにも冷静に食事をとり、シャワーを浴び、おまけにドライヤーで髪まで乾かすものなのか。我ながら、常軌を逸していると思う。

「心を落ち着かせるために、ハーブティーはいかが?」

と、私は二人にすすめた。

蜂蜜をたっぷり溶いた甘い湯気の立ち昇るカップを両手で包み込んだ。メリルも私も黒猫も、みんな黙っていた。言葉では表現できない、いろいろな感情が、ハーブティーの香りとともに入り混じって鼻先をかすめた。

「さあ、いよいよお出ましね」

黒猫キッシュの耳がつんと立った。

時計の針は23時45分を指していた。夫のローリーは、明日の朝も早いから、と早々にベッドに入ってしまった。そう、ここにも一人いた。幽霊ごときで仕事を休めない男が。


メリルと私と黒猫は、息をひそめて待った。窓の外で何かが弾けるような音がした。三人は息を呑んだ。身じろぎもせずに。どこからやって来るのか、どうやって現れるのか。はじめての事態に想像の余地もない。おもてで風が吹き抜ける。全身が聴覚になったように研ぎ澄まされていく。この世の全ての音という音が聞こえるかのように、どこか遠くで微かな金属音、竹笛のように足元を渡っていく低い音がきこえた。

「来た!」

と、黒猫が言った。

「窓の外、部屋を覗いている。黒い姿で…。

リンダっ、今は、家に入れちゃだめ!勝てっこない!」

と、黒猫が叫ぶ。

「今、屋根に上って行ったわ、四つん這いで。奴は、もう人間の姿すら失くしちまってる!」

と、黒猫が言った。

「家に入れちゃだめって、一体どうしたらいいの?」

そう私は言いながら、メリルを見て、はっ!と思い出した。

「メリル、祈るのよ、ロイに!いつもように!」

メリルは、はっと我をとり戻したように、胸の前で手を組んだ。

「祈るって、どう祈ればいいのよ!」

と、黒猫が訊く。

「相手は真っ黒い闇の世界から来ているんだから、それとは正反対の、奴が嫌がりそうな言葉よ!何か思いつかない?」

「正義と悪みたいな?」

と、黒猫が言い、

「そう!そんな感じ!あっ、希望とか、光とか、感謝とか!」

と、私が言い

「あっ、わかった!善の言葉ね!」

と、キッシュが言う。

「そう!」

メリルと私と黒猫は、ただひたすらに祈った。メリルが祈りのなかで、ロイにどう語りかけたかは知らない。黒猫キッシュは、いつになく私の言葉に忠実に、希望!光!感謝!を呟きつづけた。時々、正義!を交えながら。

屋根の上で踏みつける音がする。耳の奥で金属音が響く。風が唸るように大気を揺るがす。私は心のなかで、きっぱりとロイに言った。


ロイ、脅しても無駄よ。言いたいことがあるなら、正々堂々と出直しなさい。私は、逃げも隠れもしないから。闇の力をつかって、力ずくで得られるものなどないわ。あなたも肉体を失ったなら、もう知っているでしょう。


どれほど経っただろう。チュン、チュンと鳥のさえずりが聞こえた気がした。三人とも眠ってはいない筈なのに、まるで遠い世界に行っていたかのような感覚で現実に引き戻された。窓の外で白々と夜が明けようとしているのをみて、日付が、8月16日から17日に変わっていることを確認した。

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