第9話 8月17日、ロイ・カーチスの旅立ち

「みんな、無事?」

と、私が訊いた。

「助かったーっ」

と、黒猫が両手を突き上げて伸びをした。

間もなく、尋常じゃない疲れと安堵で、三人は一気に睡魔の餌食になった。

私が次に目覚めたのは、朝と昼の間だった。私は、珈琲とトーストの用意をするためキッチンに立った。ローリーからのメモが置かれている。


“リンダ、おはよう。昨夜はお疲れ様。ロイの幽霊には無事会えましたか?三人を起こさないように、静かに出ていきます。ローリー”


無事会えましたか?って。ローリーにかかると、幽霊までまるで来客みたいね、と笑いが込み上げてきた。

数時間前までのことが嘘のように、晴れた空がひろがっている。出窓から差し込む陽ざしがきらきらとキッチンまで伸びている。

「おはようございます」

と、メリルがキッチンに入ってきた。

「おはようございます」

と、私は笑顔で返し、大変だったわね、とあらためて昨夜のことを互いに労った。

ちょうどその時、寝ぼけ眼の黒猫キッシュがキッチンに姿をあらわした。

「キッシュ、おはよう。ちょうど珈琲を淹れたところよ」

と、私が言うと

「後でいい。一服が先」

と、キッシュが大あくびをして、煙草に火をつけた。

トーストをかじりながら、

「ロイはどうなったんでしょうか?」

と、メリルが訊いた。

「さあ、わからないわ」

と、私はメリルに返し、

「昨日はそれどころじゃなくて訊きそびれたけれど、そもそもロイはどこにいたの?詳しく聞かせてちょうだい」

と、キッシュに言った。メリルも頷いた。


「昨日、メリルさんの話を聞きながら、いつものようにイメージが浮かび上がった」

と、キッシュは話し出した。

ロイが部屋のなかに立っているイメージ。多分、ずっと前からそこに突っ立っていたって感じのイメージ、とキッシュは言った。部屋には窓があって、ロイは窓にむかって立っていた。窓の外を見ているのか、俯いているのかは、はっきりとわからない。

「メリルさん、ロイが死んだ部屋には窓がある?」

と、私は訊いた。

「確か、ドアから入って、左手に窓があります」

と、メリルが答えた。

すかさず、

「そう!きっと、その部屋!」

と、キッシュが言った。そこまでならイメージを受け取るだけで、いつも通りだった。

「でも、今回は違っていた」

と、キッシュが言った。

窓にむかって立つロイの後方左手に部屋の入り口があって、そこからキッシュはロイを見ていた。長らくそこに突っ立っているらしいロイの顔は見えない。

と、その時、キッシュの視線にロイが気づいた。

ロイがゆっくりと後ろを振り向く。振り向いたロイの顔は真っ黒で、目だけがぎらぎらと光っている。ロイの目がキッシュを捕らえた。ロイと目が合ったその瞬間、見つけた、とばかりにロイはニヤリと笑ったのだ。

「今回はイメージだけじゃなく、どうも実際にそこに飛んで行っちゃったみたい」

と、キッシュは言った。

「だって、間違いなくあの瞬間、私、ドアのところに立っていた。ロイの世界に入り込んでいた」

「ロイの世界って、死の世界?」

と、私は訊いた。

「うん、多分……」

と、キッシュの声はか細くなった。

望んでもいないのに、自分の意思に反して、勝手に意識が境界線を越えて、そこに繋がってしまった事実にキッシュは戸惑っている様子だった。

キッシュにとって、明らかにそれは恐れを感じさせるものであっただろう。

「でも、どうしてロイはその部屋に立ち続けていたのかしら?」

と、私は二人に投げかけた。メリルのため息が聞こえただけで答えはなかった。

「それよりも問題は、黒いことよ。化け物になりやがって!」

と、キッシュは吐き捨てるように言った。

その問いに、メリルも私も答えは出なかった。勿論、キッシュ自身も。

「ロイはどうなったんでしょうか?」

暫くの沈黙を破るように、メリルが再び訊いた。

「ここに来たってことは、来る理由があるはずよ」

と、私が言った。

「ロイはいるよ、近くに。息をひそめてこっちの様子を窺っている」

そう言って、黒猫は注意深く周囲に目をやった。

「ロイが尻尾を出すには、アフタヌーンティーまでまだ時間がある」

黒猫はそう言って、もうひと眠りするよ、と席を立った。

私とメリルは、今夜も長丁場になるかも知れないことを予想して買い物に出ることにした。

14時を少し過ぎた頃、黒猫が戻ってきた。そして、言った。

「思い出した。あの部屋の窓の向こうに、確か白い道が伸びていたはず。靄がかかっているみたいで、最初は気づかなかったけど、ロイはあの白い道を探している。でも、黒くなってしまったロイには見えないんだよ、きっと」

だから、ロイが現れた時は、何とかして白い道に案内するしかない、とキッシュは言った。

ロイが再び現れるにおいて、私は昨夜を思い出し、いよいよこれから、只ならぬ物々しさを帯びていくのだろうと待ち構えていた。メリルもおそらく同じだっただろう。


時計の針が15時を指した。黒猫の耳がつんと立って

「リンダ、メリル、ロイが来たよ!」

私とメリルは、息をひそめて周囲を窺った。

えっ? どこに? ……?

私とメリルは顔を見合わせて、自分の理解がそこに至っていないことをお互いに確かめるしかなかった。

遂に私は、

「どこに?」

と、黒猫に教えを乞う以外になかった。

「私のなかに。……吸ってみた」

と、キッシュは答えた。

え? えーーっ? 吸うってーっ? 吸ってみた、ってどういうこと? さっぱり意味がわからないーっ!?

きょとん、として言葉も出ない私に、黒猫が言った。

「リンダ、よく聞いて!ロイを私の体に入れてみたの」

黒猫は、首をかしげた少し上目遣いの素振りで、自分の体内を確認しながら

「うん、多分……入れるのに……成功したと思う」

と、言った。そして、続けた。

「私のなかにいるロイから聞き出してほしいの、何が目的なのかを」

私にしてみたら、再び、えーーっ!だっ。ロイと話すってことは、幽霊と話すってこと? いや、そもそも、ロイが黒猫のなかに入ったってことはどういうこと? それって、世間でいう“憑依”したってこと?

えーっ!怖いーっ!

「リンダ! 私の前に座って、早く! この後、ロイを出すから!」

黒猫の言葉が強くなった。

私はロイと、いや幽霊と向かい合うことに恐れをなして、

「キッシュはちゃんといるの?キッシュはいなくなったりしない?」

私は、もう殆ど、上ずって涙声なのか、うめき声なのかもわからなくなっていた。

しかし、その時が近づいてきているのか、さっきまで顔をあげていた黒猫が、目を伏せて俯きだした。

「いる! 私は、いるよ!体は貸しても、心まで乗っ取られたりしない!」

そのふり絞るような声から、キッシュ本体の意識が薄れつつあるのだ、と私は感じ取った。私は、自分の体がわなわな震えているのを感じつつ、黒猫の、いや、ロイの正面に座った。

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