彼もなれたというのに

空想さん

彼もなれたというのに

怯えていたと人づてに聞いた。


仕事を辞める前にはすでに。

仲間を見捨てる前にはすでに。

家族を捨てる前にはその傾向がより強まり、町を出ていく前にはすでに震えが止まらなかったという。


その後、友人は完全に姿を消した。


家族には必要な物だけは残し、消息を絶った。


家族はもちろん友人の行方の捜索を始め、男たちも快く手を貸した。それでも友人は見つからず、家族も諦めざるを得ない立場になっていた。

乗り捨てられた車から、その先の行動を探るものはなに一つ出てきはしなかった。


それから男たちは幾度も幾度もその友人のことを話し合った。


「あいつはおかしくなってしまったのかもな」と髭面の男は雄々しい体そのままの胴間声でいった。

その恰幅のいい体には沸々と湧き上がるような熱量が内包され、無法図に任せて伸ばした髭は顔中を覆い、爛々と光る丸い眼だけが愛嬌をわずかに残していた。子供の頃からこの目だけは変わっていなかった。

その巨体をまるで不釣り合いな小さな丸椅子に悲鳴を上げさせるように重たく腰かけている。

「あいつだけはそんなことは起こらないと思っていた」もう1人の痩身の男はそう答えた。なんの感情も感じられない突き刺さるような声だった。

削ぎ落としたような痩身は、今にも折れそうな枯れ木のようではなく、近づくだけで反射的に絡み付いてくるワイヤーのようにしなやかに長細く強靭さがあった。

この男には到底子供時代の柔らかい面影などありはしなかった。

髭面の男の対面にテーブルを隔てて、影に混じるように座っていた。

「あぁ、間違えることのない男だったな」

「間違えることを嫌う男で、間違えたところをみせたこともない男だった」

「それが出来た男だった。赤ん坊の頃から産声ひとつあげない無駄のなさだった。いつも先頭にいながら最後尾を監視しているような男だった」

「それでも最後だけは違ったか。あいつに見えなかったはずがない」

「そう思いたくはないがね。でな、あいつはどこに消えたと思う?」と髭面の男は痩身の男に問いかける。

「決まってる。残された場所だ。まだいくつもある。探しきれないほどある。その数など誰にも数えられるものか。荒らされた深森のさらに奥か、止めどなく崩れ続ける高山か、裂けて広がり続ける大地の隙間か、増え続ける廃墟の地下か、やつらの膨大な残存物の山に隠れているかもな。それとも海を渡ったか…」

髭面の男は首を振る。そんなことはあり得ないと知っていたから。

やつらは海を変え尽くした。

「もう死んだと思うか?」

「それはないな」

「そうだ。あの男は間違えない。それができたはずだ」

「間違えなければ生き残れる」

「あぁ、間違えなければ…」

「あの男も掴むべきだったんだ」

「そうしていたらよかったんだ」

「間違えなければよかったんだ」

「良い奥さんだったな。あいつに似合っていた。そんな女がいるなんて」髭面の男は急に過去に囚われたようにつぶやく。

「奥さんだけでなく娘も良い娘だった。あいつに似ていた。惜しいことをした」

「息子は残念だったがね」

「幼すぎたんだよ」

「それはもう言い訳にはならんよ」

「だが幼かったことは否定できない」

「するべきことがわからないほどの幼さだったというのか」髭面の男が押さえつけるようにいう。

「いや、もう幼さというものは理由にならないさ」痩身の男はそう認めた。

「そうだ、理由にはならない」

「あの子も手に取るべきだったか?」

「そうすれば守れた。家族を守れた」

「お前に守るという言葉は似つかわしくない」痩身の男も己に似つかわしくない微笑みを浮かべる。

「あぁ、俺もそう思う。もうあの頃とは違うからな、誰もあの頃のようにはできない。できなくていい」

「あいつはやはり間違えたんだ」

「そうだ。間違えたから失った。失うことは間違えたということだ」

「あいつなら選べたのに」

「やつなら選べた。その力があった、あいつならいつでも中心になれた」

「今なら選べたのにな。選ばされるんじゃなく、あいつが一番嫌っていたことだ。選ばされることを。当然のように選ばされることを。そんなことはおかしいと俺達にそう教えてくれた。もう誰も教えられなくなっていたことを。選べるということは自由そのものだということを」

「あぁ、そうだ。それでやっと変わったんだ。長すぎたからな、あまりにも長すぎた」

「生まれるずっと前からだ」

「だから俺達は選んだんだ。あいつも最初は賛成していただろう?途中からズレは生じたさ。完璧な結論には至らなかった。だからといってなにも変わっていない。俺達が選んでみせたという事実だけは」

「そう、それが結果だ。可決された。公正にだ。もう変えられない。変えるべきことなどなにもない」

「あいつは一緒にいるべきだった。ずっと一緒にいるべきだった。間違えてはいけなかった」髭面の男は声を荒げる。

痩身の男はなにも聞こえなかったように宙を見つめながらいつもの終わりの言葉を言った。

「なぁ、結局あいつは選んだのか?選ばされたのか?俺達は本当に選べたのか?それとも選ばされたのか?」


男たちの会話はいつも同じ着地点に降りてくる。


「あいつのおかげで自由になれたというのに」

「やっとやつらから自由になれたというのに」

「どんな行為も正当化される自由を手に入れたというのに」


男たちは使いなれた武器を手にしながら自由を噛み締めていた。

やつらがいなくなったこの世界の自由が次にどこに向かうのかに怯えながら。


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