4 母の愛子と五年日記
一番街の端にある「ハルtoナツ」は、落ち着いた色の煉瓦でできた築三十年の古い建物だ。
見た目は静かに佇んでいるが、今日も中は騒がしい。
「こら、ナツ。お前また、ペンを出しっぱにするな! ちゃんと元に戻せ!」
ハルはテーブルに放ってあるペンを手に取ると、ペン立てに入れて妹のナツに抗議する。
「いいじゃんそれくらい〜。お兄ちゃんは神経質すぎるんだよ」
大雑把なナツは、ペンが床に転がっていても特に気にしない。兄のハルは真面目なタイプで、使ったものはすぐ直すのがモットー(?)だ。
普段は大人しくぼんやりと手帳のことしか考えていないハル。
明るくおしゃべりで、ちょっとミーハーなナツ。
全く正反対な兄妹と言えよう。
「だいたいお前、この前も俺のプリンパン食べたろ! 楽しみにしてたんだよっ!」
「お兄ちゃん、プリンパンあるの忘れてたでしょ! 腐っちゃいけないからあたしが食べたんだも〜ん!」
ハルtoナツに二人の声が響く。
外までは聞こえていないが、もし店内に誰かがいたら生活感丸出しだ。
これが二人の日常茶飯事ではあるのだが。
「あーれーはちゃんと残してたんですぅ! わかってましたし!」
「ウソだぁ! それをいうなら、この前、お兄ちゃんあたしの大好きなシェステナ焼き一人で食べてたの知ってんだからね!? なんであたしの分買って帰らないのよ!」
「俺の金は俺の金! 欲しけりゃ自分で買うんだな!」
「妹に非情な兄めぇっ!」
細かい言い合いはどんどんヒートアップし、ついに掴みかかりそうになったその時、
カランカランと鳴ったドアベルに、ハルとナツは振り向いた。
「いらっしゃいませ!」
仲良く笑顔でハモっている。職業病だろうか?
そんなお互いをしばし睨み、ハルが入ってきた客に近づいた。
「いらっしゃいませ。どのような手帳をお探しですか?」
ハルは入ってきた客を見て、気づいた。
女性だ。柔らかい髪質の赤毛に、ゆったりとした町娘の服を着ている。お腹はふくらんでおり、彼女の手はお腹を支えるように添えられていた。
「もしかして、お腹に赤ちゃんが?」
「ええ、そうなんです」
女性ははにかみながら、リリーと名乗った。
針子をやっていたのだが、結婚して妻となり、もう少しすれば母親になる。
「今、五ヶ月なんです。 何かこの子の為に記念になるものが欲しくて。司書さんに相談したらこちらを紹介してもらったんです」
メリダかリーだろうな、と推測する。
あれから二人は常連になり、よく一緒に店に来てくれる。嬉しいことだ。
「記念になるものですか」
「ええ。メリダさんから聞いたのですけど、手帳って毎日を記録したりするのに使うのでしょう? 生まれてくる子の日々を記録できたらいいなと思って」
「なるほど。そういえば、子どもの成長を記録した手帳や日記を成人した時にプレゼントするといった方もいらっしゃいました」
この世界ではなく、日本でのことだ。
成人以外にも、結婚などの節目に日記をプレゼントしたりするらしい。
ハルは男だが、もし自分が子どもで親から貰えたら嬉しい。
「まあ! ステキなアイデアですね! ぜひ、そんな手帳を作っていただけませんか?」
リリーは両手を胸に当てて、喜ぶ。
生まれてくる子どもに、今までの日々をプレゼントできたらどれだけ幸せだろうか?
「お兄ちゃん。それなら、手帳と言うより五年日記がいいんじゃないかな?」
世話焼きなナツは、我慢できずについ出てくる。お母さんから生まれてくる子どもへのプレゼントなんて手伝わない理由はない。
棚から一冊の本を取りだすと、リリーに渡した。
深みのあるブラウンに、金の印字で「五年手帳」と彫られてある。
リリーは中をめくった。五年分のカレンダーが入っている。カレンダーが終わると、一日に一ページ、五年分のスペースがあった。
例えば八月五日なら、五年分の八月五日の記入スペースがあるのだ。
「どうですか? この中に、生まれてくるお子さんの五年分がぎゅっと詰まるんです!」
「この子の、五年分……」
リリーは目線を落として、ふっくらと丸いお腹をさする。その目は慈愛に満ち、とても美しい輝きを放っていた。ハルもナツも言葉を失う。
「ちょっと心配なんです。私のなんかがちゃんとお母さんになれるのかって。この子の為にも、立派なお母さんになりたい、って思ってるんですけど」
「大丈夫ですよ!」
ナツは、リリーの手を取って、しっかりと見つめた。
「だって、今のリリーさん、お母さんでしたよ! あたし、小さい頃に母を亡くしました。でも、お母さんがどれだけあたしを大切に思っていたか、なんとなくわかるんです。今のリリーさん、あたしのお母さんにそっくり!」
「まあ……ナツさん……ありがとうございます……!」
ナツの言葉に、リリーは涙ぐみながら笑みを見せる。そんなリリーに、ハルはそっと口を開いた。
「……うちはオーダーメイドです。表紙の色なども変えられますし、お子さんの名前を彫ることもできますよ」
ナツはぼんやりと五年日記を見つめていた。
母親のことを考えているのだろう。
「本当ですか? 実は、もう名前は決まってるんです。お願いしていいかしら」
ハルは頷くと、リリーの五年日記を創り出すことにした。
○
「お母さんも、あたしが生まれた時はあんなに幸せそうだったのかな」
リリーが帰ると、ナツは兄に聞くように独り言を呟いた。
「実は、お前には言ってなかったんだがな、母さんも五年日記をつけていたんだ」
ナツはえっと声を上げ、兄を見上げる。
その思い出に浸るような哀愁漂う兄に、ナツは言葉を続けられなかった。
「いつか俺とナツが大きくなったら、プレゼントしてあげるって。そう約束してくれた」
「じゃあ、お母さんとお父さんが死ぬまで、お母さんは日記を書いていたの?」
ハルは静かに頷く。
「その五年日記はどうなったの?」
「多分、日本に。まだどっかにあるはずだ」
「そっかぁ……」
ナツはなんとも言えなかった。なんとも言えなかったが、嬉しかった。
日本に帰るすべはわからない。
だがきっと自分の故郷に、母の兄と自分の愛の形があるのだろう。
もしかしたら、捨てられたり、燃やされているかもしれない。だが……。
きっと母の中には、ハルとナツの五年日記が確かに存在していたはずだから。
ハルは言えなかった。まだ話すつもりはない。
この世界に来てから、自分もこっそり五年日記をつけていることを。
たった一人の大切な家族、ナツの為に。
○
小さな女の子が、テーブルを覗く。
母親は本みたいなものに何かを書いている。
女の子はそれに興味津々だった。
「ねえ、ママ。何書いてるの?」
すると、女の子の体がふわりと浮かぶ。
兄が女の子を持ち上げたのだ。兄を見上げると、彼はにこりと笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、ママは何を書いてるの?」
「僕たちのことを書いてるんだって」
「あたしたちのこと?」
ふふふ、と母親も笑みを溢した。
母親は女の子の頭に手を置くと、優しく撫でてあげる。
「いつか、二人にプレゼントするわ」
「やったー」
女の子も笑顔を浮かべる。
そんな微笑ましい光景を、父親は遠くで見守っているようだ。
「ねえー。ユリンもママのこと書くー。パパと、お兄ちゃんのことも!」
「そう。じゃ、今度、ハルtoナツに行ってみましょうか? ユリンにぴったりの手帳が見つかるわよ」
「いくー!」
五年日記が閉じられる。赤い表紙には、二人の子どもの名前が記されていた。
きっとこの日記は明日の夜もまた開かれ、思い出は雪のように降り積もるのだろう。
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