第16話 安らぎのひととき
地獄のような昼休みを終え、気づけば午後の最終授業の時間を迎えていた。
ヴィオは先にローウェン公爵家の馬車で帰宅し、ルルイエはライオスが屋敷まで送り届ける予定だ。
(つ、疲れた……)
キャロラインと教室が別だったが、昼休みの疲労は午後の授業にも響いた。
壁とドアで隔てられた個室とは言え、学食内の空間だ。様々な感情が伝わってくる中でキャロラインの意味不明な感情は、ライオスの精神をひどく疲弊させたのだ。
さすがのライオスも疲れ果て、最後の授業はサボり別棟の談話室で休憩することにした。
昼休みでのことを踏まえ、フロイス公爵令嬢の誘いを断れるようにルルイエには放課後に談話室へ来ることを伝えている。
だらしなくソファの背もたれに寄りかかるライオスの前に、紅茶を置かれる。
「いつになく疲れていますね、殿下。いくら他者に厳しいと噂のフロイス公爵令嬢も王弟に噛みつくほどではないでしょう?」
いつも飄々としているライオスが疲れ切っているのに対して、マシューは不思議がっているようだ。
「さすがの私も彼女を狂犬だとは思っていないさ。しかし、慣れない客人の相手に気疲れしたことは確かだ。常に彼女に気を配っていたからね」
もっとも、ライオスが疲れている理由は彼女の心の声のせいだが。
「彼女の相手は精神的に来る……」
リチャードの側近候補達はキャロラインのはっきりとした物言いにびくびくしていたが、慣れてしまえばどうってことない。ただ、心の声が喧しい。これに尽きる。
絶望するライオスを見たマシューから微笑ましい感情が流れ出た。
「傲岸不遜の殿下が、客人に気を遣うなんて。成長しましたね……」
「褒めるか貶すのかどちらかにしてくれ」
この従者は一体主をなんだと思っているのか。
(はぁ……今日がまだ初日だなんて信じられない)
これがあと一週間以上続くと思うと辛いものがある。
なるべくキャロラインと鉢合わせにないようにしようと、ライオスは心に決めた。
マシューが淹れた紅茶を口に含み、ほっと息をついた。
(ルルイエに会う前に休めて良かった……彼女の前では格好つけたいからね)
しらばらくして最終授業も終わり、廊下の方から期待と嬉しい感情を胸に秘めて近づいてくる気配があった。ハッとしてライオスはだらしなく開けた前ボタンを閉め、緩めたネクタイと襟を正した。
ライオスの身支度が整ったのと、ドアをノックされたのはほぼ同時だった。
マシューがドアを開けると、ルルイエと侍女のテレサが入室する。
「ごきげんよう、殿下。お茶のお誘いありがとうございます」
「やあ、ルルイエ。待っていたよ」
ルルイエの嬉しい感情を直に浴びたライオスは、疲れが吹っ飛んだような気分になる。
彼女に会うだけで癒されるなんて、きっとルルイエにはセラピー効果があるに違いない。
ライオスはルルイエにソファを勧め、事前にカフェでテイクアウトしていたケーキをテーブルに並べる。本当はルルイエが好きなショートケーキを用意してあげたかったが、マシューが言うには売り切れだったらしい。
「本当はルルイエが好きなケーキを用意してあげたかったんだけど……」
「いえ! カフェのケーキはどれも美味しいので大好きですわ」
ルルイエが嬉しそうにケーキを頬張ると、彼女の幸福感が周囲に広がっていく。そんな彼女の姿を見ているだけでライオスも幸せな気分に浸れた。
「ルルイエはとても幸せそうに食べるね」
「はい。甘い物は人を幸せにしてくれるって本当だと思います」
ふと彼女は何かを閃いてフォークを持つ手を止める。彼女が思い浮かべたものがライオスに伝わる。
(ロマンス小説?)
それはライオスも読んだロマンス小説の表紙だった。何かケーキにまつわるものがあっただろうか。
ライオスが考えていると、ルルイエが緊張した様子でケーキを掬い、ライオスに差し出す。
「し、幸せのおすそ分けです……」
恥ずかしそうにそう口にするルルイエに、ライオスは衝撃が走った。
(こ、これはいわゆる……あーんってヤツでは⁉)
ロマンス小説にもカフェでケーキを食べさせ合う場面があったのをライオスはしっかりと覚えていた。
正直、ルルイエには難易度が高く、やってもらえないと思っていたライオスは、段階を踏んだのちに自分からやろうと考えていた。
(ま、まさか! あのルルイエが! やってくれるの⁉)
さらに傍に控えていた彼女の侍女テレサから衝撃な事実を齎された。
『お嬢様! 今こそ屋敷でイメージトレーニングの成果を発揮する時です! 頑張って!』
(イメトレまでしたの⁉)
ここでライオスが退くわけにはいかなかった。
ライオスは余裕を見せようと、なるべく自然体で受け入れるように口を開く。すると、ルルイエはケーキをライオスの口に入れてくれる。
口の中で甘さが広がると同時に、胸の奥が騒がしくなり、じんわりと熱くなっていった。
自分の中で幸福感に満たされていくのが分かる。
(なんだろう……やってから急に恥ずかしくなってきた)
次第に頬だけでなく耳まで熱くなっていき、思わず口元を手で隠す。
「…………うん。ルルイエの言う通り、甘いものは幸せにしてくれるね」
今、自分はどんな顔をしているだろうか。ルルイエの前では余裕のあるスマートな男でいたかったが、今の自分にそんな余裕はなかった。
ルルイエを見ると、淑女のお手本のような笑みを浮かべている。
「殿下にもそう思っていただけて嬉しいですわ」
彼女は平然としているが、ライオスには分かっている。
内心では酷く取り乱していることを。
『殿下が食べてくださった⁉』→『頬を赤らめていらっしゃる⁉』→『いつも余裕がある殿下が照れているの⁉』→『かわいい!』→『男性に可愛いって失礼⁉』→『いや、そもそも殿下にあーんをするなんて、それこそ失礼⁉』→『私はなんて大胆なことを⁉』
(あんなに取り乱して。可愛いな、ルルイエ…………ん?)
恥ずかしさで混乱していた彼女は、自分の手元をまったく見ていなかった。
おそらくルルイエは一口分のケーキをフォークで掬ったと思っていたのだろう。しかし、ケーキは割けることなく、まるごとフォークに突き刺さったままルルイエは顔面でケーキを受け止めた。
「ごぼぼぼっごぼぼぼぼぼぼぼぼっ!」
「ルルイエ⁉」
「お嬢様⁉」
盛大にむせ返ったルルイエにライオスが慌ててハンカチを差し出して、背中を擦る。
「ゴホッ……す、すみません、殿下。せっかくのケーキを台無しにして……ケホッ」
「いいんだよ。夢中になると前が見えなくなることはよくあることだ」
マシューが崩れたケーキを回収し、テレサがライオスに濡らしたハンカチを手渡す。
「ほら、ルルイエ。拭いてあげるから目を瞑って」
「は、はい……」
顔の下半分がクリームまみれになったルルイエを見て、ライオスは苦笑する。
(まさかルルイエが自分から食べさせてくれるなんてな……)
逃げなくなったことでも大きな進歩なのに、この積極性はロマンス小説の影響だろうか。
ライオスが読んだロマンス小説はわりと大胆なことをする作品だったのをよく覚えている。
(そういえば、ヒロインの顔についたクリームをヒーローが指で掬って舐める場面もあったな。そんなことしたら、ルルイエの心臓が止まっちゃうだろうけど。それにしても……)
クリームは全て拭き終えたが、クリームの甘い匂いがルルイエから漂っていた。
「殿下?」
「ああ、ごめん。拭き終わったんだけど……ルルイエから甘い匂いがする。美味しそう」
ライオスが冗談めかしにそう口にすると、室内がしんと静まり返った。
忙しなく動いていたマシューとテレサも動きを止め、驚愕と共に『素で言っている……⁉』と目を見開いていた。
(え……何か変なこと言った?)
そして、微動だしないルルイエが気になって彼女を見下ろすと、彼女は笑みを浮かべたままだった。
(別にルルイエも普通だし…………はっ⁉)
彼女から感情が伝わってこないどころか、呼吸まで止まっていることに気付き、ライオスは背中を軽く叩いた。
「ルルイエ! しっかり!」
「はっ⁉ やだ、わたくしったら!」
ルルイエが我に返り、テレサが新しく持ってきたタオルで自分の顔を拭きながら、顔を隠した。
髪の隙間から見える彼女の耳が赤くなっているのが分かる。
『び、びっくりした……一瞬気絶しかけたわ。でも、美味しそうって……美味しそうって……』
彼女の恥ずかしがりようは、頭から湯気が出そうな勢いだ。
(普通に甘くて美味しそうな匂いだなと思っただけだったんだけど……)
ライオスからすれば何気ない言葉のつもりだったのだが、テレサやマシューの反応から察するにわりとまずい言葉だったようだ。
(ルルイエはあまり心臓が強くないみたいだし、これからは発言に気を付けないといけないかも。今回は彼女を驚かせないためにも、なるべく受け身でいようかな)
彼女が積極的になっていることはさっきのことでよく分かった。ルルイエが逃げ出さず、そして急に倒れないためにも、ライオスはなるべく彼女に手を出さないようにすると決める。
(でも、予習だけはしておくか)
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