第10話 隣国からの訪問者
(大丈夫、まだ私とリチャードの姿は見られていない! この状況なら逃げられ……)
「ライオス様もお出迎えしてくださったんですねぇ~! またお会いできて光栄ですぅ~!」
どうやら、馬の上からライオスの姿が見えていたらしい。ライオスはミカエルに視線を投げかけると、彼は小さく首を振る。
諦めろ。
心の声が聞こえなくてもそう言っているのが分かり、ライオスは静かに頷いた。
(御意)
ライオスはリチャードの腕を離すと、彼の顔には大きく後悔の色が浮かんでいる。
リチャードの心の声が聞こえなくてもライオスには分かる。
『素直に従っておけばよかった』
きっとそう思っている。
(なぜ彼女がこの国に? フロイス公爵令嬢は? というか、なぜ一人で……?)
颯爽と馬から降りたエスメラルダに面食らったミカエルは、一度咳払いして表情を作る。
「エスメラルダ王女……昨年ぶりに拝顔できたことを嬉しく思う」
「お久しぶりですわ。国王陛下もお元気そうで何よりです」
『一国の王に、なんて気安い態度をっ⁉』
皆が一斉に肝を冷やす。
当たり前だ。彼女はこの国に訪問する予定がなかった。単独で乗り込んできた上に、そのような態度を取られれば、この国を侮っていると思われても仕方がない。
「ところで、本日は王女の従姉妹、フロイス公爵令嬢も向かっていると聞いているのだが、彼女はどうしたのだろうか?」
ミカエルは彼女の訪問理由を聞くのを敢えて避け、フロイス公爵令嬢の所在を探った。
「キャロライン? ああ、彼女なら馬車でゆっくり来るのではないでしょうか?」
あっけらかんとした口調で言った彼女に、ミカエルが顔をひきつらせたのが分かった。
(まずいな……)
本来の客人を差し置いてミカエルは彼女を接待するわけにもいかない。とはいえ、このまま彼女を待たせるわけにもいかない。この場をどう納めるかライオスは思考を巡らせる。
この場で彼女を接待できる立場はライオスくらいだろう。
(いや、連れ出す必要はない。ここは私が彼女を咎めて、兄にその場を諫めてもらおう……)
ライオスが一歩前へ踏み出した時だった。
『いたぁああああああああああああああああああああああああっ!』
(ん?)
怒号が聞こえたかと思うと、城門からロータリーに向かって純白の馬を走らせる人物がいた。
白銀の髪を高く位置で一つに括り、空色の瞳と柳眉はひどくつり上がっている。彼女は馬を器用に操り、その場で立ち止まらせると馬の上から声を張り上げた。
「火急のため、馬上から拝顔を賜ることをお許しください! わたくし、シャルメリア、フロイス公爵が娘、キャロラインと申します!」
息を切らしながら名乗りを上げた少女、キャロラインは馬から降りると、手綱を近くの者に預け、そのまま大股でエスメラルダに近づいた。
「あら、キャロライン。ずいぶん早い……⁉」
パァンと乾いた音がその場に響く。
それはキャロラインがエスメラルダの頬に平手打ちした音。
エスメラルダが赤く腫れた頬に手をやり絶句している中、キャロラインはミカエルの前に跪いた。
「お目汚し大変失礼いたしました。どうか、この度のご無礼をお許しください。我が国は決して貴国を軽んじているつもりはございません」
「許す。顔を上げなさい。此度の留学は親交を深めるためと聞いている。いたずらに亀裂を入れようとする者がいるとは思っていない」
「……寛大なお言葉に感謝いたします」
ほっとした様子でキャロラインがそう言った時だった。
「…………った」
キャロラインの後ろでエスメラルダが何かを呟く。
「キャロラインがぶった! キャロラインのバカぁあああああああああ!」
目に大きな涙を浮かべて、エスメラルダが泣き叫ぶ。周囲が狼狽える中、ライオスだけが苦笑していた。
(エスメラルダ王女って十三歳になったんだよな……小さな子どもみたい)
昨年に比べ、ぐっと背が伸び、体つきも女性らしくなっていたが、肝心の中身は成長していないようだ。
ミカエルからエスメラルダの言動にどう収集をつけていいか戸惑う感情が伝わってくる。さすがのライオスも打つ手がない。
(ここで私が手を差し伸べるのもおかしいんだよな……自身で撒いた種を回収してくれ、フロイス公爵令嬢)
キャロラインからはエスメラルダに対して強い憤りを感じるものの、その表情は険しくない。だいぶ腹芸のできる女性なのだろう。
彼女は泣き叫ぶエスメラルダに背を向け、にっこりと微笑んだ。
「どうぞ、皆様お気になさらず。我が国の王族には、泣いて我儘を通すような幼子はおりませんので」
(うわ、辛辣……。噂通りの御仁だな)
マシューから彼女の人柄について報告を受けている。
キャロライン・フロイス。フロイス公爵家の第一子であり、十二も年の離れた弟がいる。
文武両道で自国の学校では生徒会副会長を務め、主に女子生徒から絶大的な人気を集めていた。
その人気の理由は彼女の品行方正な性格だ。男女問わずはっきりとした物言いをし、公正な判断を下す姿を『天秤の女神』と称賛される一方で、『鋼の女』『可愛げのない女』と陰口を叩かれているらしい。
(リチャードの尻叩き役としては適任だけど、気の強すぎる女性はいささか相性悪いかな……)
『私は公爵家の娘……』
(ん?)
ほとぼりが冷めてきたのか、彼女の心の声がはっきりと聞こえてきた。
『君主の間違った行いに対して、臣下が諫めるのは当然のこと。でも……勢いあまって叩いちゃったぁああああああああああっ! どんなに腹が立っても枕やクッションにも八当たりしたことがなかったのに! エスメラルダ、ごめんねぇええええええ! 痛かったねぇえええええええ!』
「ぶっ!」
表情と心情のあまりの温度差に、ライオスは小さく失笑する。
幸い、ライオスの失笑は誰にも聞こえなかったようだが、キャロラインの心の叫びはまだ続いた。
『いや、そもそも王族が貨物に紛れて密航している方がおかしいのよ! 元気があることは良いことだけど、度が過ぎるわ! ……ん? 待てよ。もしかして、これ密入国? 馬だって半ば強奪してきたようなものだし、普通に犯罪では……? 帰らせなきゃ、今すぐに!』
どうやら、エスメラルダは正規の手続きを取らずに、この国に来たらしい。彼女の心から聞こえる怒涛の叫びに、同情どころか笑いが込み上げてきてしまう。
「フロイス公爵令嬢、紹介が遅れた。我が弟、ライオスと我が息子のリチャードだ」
どうやら、ミカエルはエスメラルダの存在を一旦置いておくことにしたらしい。
どのみち、エスメラルダはキャロラインに幼子扱いされたのが悔しく、嗚咽をこらえるのに必死になっていたので声もかけられない。
「お初にお目にかかります。ライオス王弟殿下、リチャード王太子殿下」
キャロラインが『どうやってこの場を切り抜けよう』と内心冷汗を流しながら淑女の笑みを浮かべて小さく膝を折る姿に、ライオスはどうにか笑いをこらえ、彼女の挨拶に応えた。
愉快な気持ちのライオスとは裏腹に、リチャードから戦々恐々とした感情が伝わって来る。
『この女、この状況下で笑っていられるだと? メンタルが鋼でできているのか?』
彼がそう思うのも当然だろう。苛烈さならカレンも負けてはいないが、さすがに王族に平手打ちするほどではない。公爵家のルルイエだって、王族のリチャードを諫めるほどの度量はなかった。彼からすれば、類を見ない女性だ。
おまけに彼女は自国の王女を冷たくあしらっているのである。
リチャードはキャロラインのエスコートを任されているが、エスメラルダも無下にできない相手だ。この事態にどうすればいいのか、彼の良心が大きく揺れているのがライオスには分かる。
「フロイス公爵令嬢、客室へご案内したいところなのですが……その、エスメラルダ王女は?」
「気遣い痛み入ります。しかし、仕えている者も荷物も置いてきてしまった上に、見苦しい姿のまま王女と王宮に上がるわけにもいきません。まずはこちらに向かっている国の者と合流したいと考えております。無礼承知の上で申し上げますが、一度御前を下がらせていただきたく存じます。いいですね、エスメラルダ王女?」
『コイツは血も涙もないのか……⁉』
笑顔を崩さないキャロラインに慄くリチャード。しかし、彼女の心の声はこうである。
『密入国。不敬罪。馬の窃盗。それだけじゃない。エスメラルダの監督不届きとして最悪の場合、何十人も人間が罪を問われるわ! リチャード王太子殿下、ごめんなさい! 貴方の気遣いを無下にしているわけではないの! このお猿さんをお家に帰さないといけないの!』
互いの感情が交錯し、現場は混沌としていた。
ライオスはキャロラインとエスメラルダを下がらせてあげたい気もするが、ことがことである。安易に何かを提案できない。
(ここは、遅れてくる彼女の馬車を待つのがいいかな? どのみち、エスメラルダ王女が連絡も無しにやって来たことは、シャルメリア王家に伝えないといけないし)
ライオスはちらっとミカエルに視線を向ける。
彼から『密入国』『うちで用意した馬じゃない』という微かな呟きと、疑念と不安、疲労の感情が伝わってくる。
(すまない、フロイス公爵令嬢。おそらくだが兄上はほぼ正解にたどり着いている。諦めておくれ)
ライオスはほとんどない優しさを完全に捨てることにした。
「兄上。彼女達が乗って来た馬はひどく疲弊している気がします。このまま馬を走らせては、事故が起きる恐れも……それに護衛や馬車を用意しても、気心の知れない相手では、彼女達の大きな負担になるかと」
そうライオスが口にすれば、キャロラインが内心で悲鳴を上げる。
『王弟殿下、なんていらぬ気遣いを!』
「そうだな、ライオス。彼女達は大事な客人だ。御身に何かあっては困る。リチャード、彼女達を中庭に案内するといい」
国王にそう言われれば、もう彼女に退路はなかった。
『わたくし、万事休すですわ……』
心中で口調がめちゃくちゃになりながらも、キャロラインは恭しく頭を下げ、礼を述べるのだった。
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