風土記・アウターマン
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風土記・アウターマン
1550年。武蔵野には緑の濃淡がある。
千年来の戦乱が、東海道から入る南、続く東部、抜ける北を人里らしく開いた。だが原野は、精神を呑むほど緑濃い原生の野原は、まだそこにある。西に残っている。波のように揺れ、滝のように鳴り続けている。
その最果て。大人より背の高い草むらの向こう、切り立ち聳える山塊の根元に、一つの洞がある。
高く広い洞窟だった。入り口は騎馬でもすれ違える。壁と天井はほとんど直角、通路は深く入り組み、壁一面に掘削の細かい跡があった。古代の豪族が墳墓として掘らせ、いつしか曝かれた物だと言われている。
洞には幽鬼が棲んでいた。形のない怨霊が目撃され、肉のある鬼が人を食った。洞は魔窟と恐れられ、一方で財宝の噂が立ち、どうしようもなく人を引きつけた。
しかしやはり鬼がいる。半端な墓荒らしでは敵わない。時代時代の兵法家や祈祷師が護衛に雇われ、あるいは腕試しに挑み、それでも鬼に殺される。装備が洞に落ちる。ごく稀に生きて戻り富を得る者があり、また人が集まる。魔窟の手前で商売が始まる。食料が運ばれる。武具が作られる。店が開かれる。女が呼ばれる。出店が宿場町になり、行き止まりの街道が踏み固められる。町は金に、魔窟は血に潤った。
そして1550年、その夏。清算の時だ。魔窟が水攻めに遭う、という噂が当の魔窟に届いた。
噂は爆笑に迎えられた。傑作だ。外はいよいよアホの世界になったのか。笑ったのは鬼たちだ。他ならぬ魔窟の住民の嬌声が、まさしく水に呑まれる魔窟の暗黒に響き渡った。
まあ待て、噂には続きがある。水攻めを仕切るのは黒周防とかいう侍で、これは隣国に立った大名の将軍らしい。何しろ領国経営は金が掛かる。そこで財宝に目をつけた──。情報は鬼たちの興味を引かなかった。ただ水攻めの馬鹿らしさを笑い続けた。だってよ、水がどこにある?
笑わない鬼が一人いた。鬼は地べたで腕を組み、反響する笑い声を聞いていた。鬼には名がある。少し賢い鬼、少賢鬼。誰も呼ばない名だ。本人も名乗らない。だが少賢鬼は、自負するとおり少し賢かった。
少賢鬼は考える。こいつらは正しい。水攻めは有り得ない。
武蔵野は北を荒川、南を多摩川に挟まれた台地だ。その二本の他に太い川はなく、火山灰の堆積した地質は地下水脈までも遠い。魔窟のある西部は特に酷い。人間などは井戸を掘るにも苦労していた。攻めるための水は確かに無い。
仮に物理的制約がなかったとしても、やはり有り得ない。水攻めは包囲戦術だ。だが鬼には補給の概念がない。人が来ないのであれば何百年でも眠って待てばいい。あるいは、いっそ濁流を流し込むことができるのなら、鬼は身体を砕かれて死ぬかもしれない。しかしそれでは魔窟に眠る財宝も"わや"になる。攻略する意味が消える。
だから水攻めは無い。起こし得ず、効果が無く、ただ逆効果だけがある。
だが、では、この噂は何なのか? 水攻めの話題を切り出したのは少賢鬼だった。
つい最近、四人組で魔窟に入る勇者がいた。三人はすぐに死んだが、一人、生きて引き返す男がいた。男は入り口の直前で少賢鬼の待ち伏せに遭い、平伏して捲し立てた。もうすぐ水攻めがある。俺たちの村は巻き添えだ。せめて宝を奪うつもりで来た。工事を仕切る男はとんでもない鬼畜で……。
少賢鬼は自らの知性が少ないことを知っていた。だから話題を群体に放り込んで検討させた。鬼どもは輪を掛けてバカだが、先に死んだ三人から情報を得ている可能性もあった。
結論は変わらなかった。やはり水攻めは有り得ない。だが、では、噂の正体は?
少賢鬼は賢くありたかった。笑い声から離れる。迷路のような魔窟だが結局の行き先は二通りしか無い。外に出るか、奥に潜るか。
奥へ。
魔窟は所詮、古代人の墓だった。迷わなければ広さはない。少賢鬼は三千歩を数えるうちに、最奥部の石室に辿り着いた。
そこは王の間だ。つまり棺がある。それは一抱えほどの大きな壺だった。魔窟に主と呼べる幽鬼はいないが、本来の主人は彼女ということになる──少賢鬼だけはそう考えていた。
王の間に他の鬼が入ることは無かった。少賢鬼がそう仕向けた。壺の周囲には刀剣、武具の類が抜き身で散乱している。闇に煌めく宝刀があり、錆び付いた鈍刀があった。式神の紙片があり、異国の十字架があった。全てが勇者の遺物であり、怨嗟と魔性に燻される財宝だった。幽鬼は金物を嫌う。少賢鬼は拾い集めることに耐えられた。
すみには書物もあった。装丁はまちまちだがおよそ百冊。ただの鬼を少賢鬼に変えるには十分な量だ。一部は勇者が後生大事に抱えていたものだが、少賢鬼の知る限り、ほとんどは最初から置いてあった。
少賢鬼は間を見回し、そして一本の小刀を選び取った。瞬間、変化が起こる。
身体が軽くなる。内臓が裏返ったような怖気に襲われる。前者は小刀の魔力。後者は魔窟の空気が発する殺意。親しみすら感じていた壁の細かい凹凸が、今はおぞましい爛れに見えた。
少賢鬼は魔窟に捧げた供物を盗んだ。敵と見なされた。弁明する相手はいない。
慌てて来た道を戻る。風のように速く、林より静かに。小刀の魔力は本物だった。それでも何体かの鬼に見つかり、躊躇無く襲われ、殴り潰した。足を止めれば囲まれて終わる。少賢鬼は走り続けた。
そして魔窟を出た。外は夜。風に流れない暗雲が月も星も覆っていた。
振り向かず藪に入り、東へ。何頭かの山犬が訳も分からず続いて飛び出し、すぐに振り切られた。
少賢鬼は魔窟の口近くに潜むことを好み、以前から外界の景色を見知っていた。狙いは追い剥ぎだ。魔窟を一歩出た勇者の安堵した背中を襲うこともあった。
藪を抜ければ賑わう宿場町があり、その向こうには人を打ちのめす原野が広がっている。少賢鬼の記憶ではそうなっている。
その夜は違った。町には明かり一つ無く、その向こうには壁が見えた。
正確には、地平線に広がる闇が壁だと気付いた。見えるはずの原野、聞こえるはずの葉音がない。遮られている。
壁の上背は魔窟の天井より高く見えた。上辺に並ぶ明かりは均等な間隔からして篝火らしい。左右はどこまで続いているか分からないが、魔窟を中心に半円を描き、山塊に接地していることは想像できた。ただ一カ所、どこかの水源と接続する水路だけが空いているはずだ。
つまり、水攻めはある。
中年の将軍、黒周防は憮然としていた。土塁は完成した。あとは周防の合図一つで水攻めが始まる。始められてしまう。
水ははるか北の荒川から引いた。大工事になったが、たかが工事でもあった。人は死なない。本来の下流では困るだろうが、お家の領土では無いから構わなかった。田荒らしになれば一石二鳥とも言えた。
細工は流々。鬼退治で家名が上がれば民の苦労も報われる。金庫を緩めさせた甲斐はあったはずだ。だが物足りない。一つ、目に見える鬼の首が欲しかった。
だから噂を流した。他国の野武士を雇い、現地民として同情を誘えば鬼は見逃すと騙して魔窟に送り込むことまでした。
功名心ではない。穢れた財宝もいらない。黒周防はすでに大国の将軍、その身を動かすのは組織の倫理だった。重要なのは家名だけだ。欲をかけば立場が揺らぐという保身でもあった。
周防は憮然と、土塁の上を散歩していた。弓と刀は携えていたが鎧は着ていなかった。ただの散歩だ。あちこちに見張りも立っている。
その全てを潜り抜けて、一人の鬼が現れた。
少賢鬼は周防の正体を直観した。軽装だが上級の武士。魔窟に挑む輩とは身なりが違う。ただの見張りであれば小刀の魔力で振り切っても良かった。しかし少賢鬼は逃げず、周防に一歩歩み寄った。
鬼の姿は人と似ていて、決定的に違った。顔が大きく、手足が大きく、支える肩と股は細い。青白い肌に毛は無く、股の間は空白。欠損した死体を乱雑に繋ぎ合わせたような姿。
「知りたいことがある。水攻めは、何のためだ?」
船の軋むような音が周防の肌に粟を作った。鬼の乱杭歯から発せられたようだが、全く意味が分からなかった。
周防は腰から矢を抜き、弓に携え、虚空に向けて放った。
矢は土塁の内側を飛び、高い音を立てた。鏑矢と言い、鏃の代わりに笛のような筒が付いている。その笛が鳴った。二人は意味を理解する。周防は知っていた。少賢鬼にも想像が付いた。
地鳴りはすぐに始まった。何百、何千もの軍勢が駆けるような轟音が闇夜を揺らす。水だ。流れを変えられた川が闇の中に奔流を作る。
濁流と剥がれた家屋が二人の足場に至った。怒濤が霧のように降る。土塁は崩れなかった。
折しも夜明けが来た。原野、宿場町、そして魔窟を覆う藪の水中に消えるのが、よく見えた。
「これが人の力だ。感動だな。世界は美しい。なのにお前らと来たらどうだ」周防は弓を捨てて刀を抜いた。
「五百年前、武蔵野にとある僧が来た。名は西行。死者復活の外法を行い、失敗したそうだ。恐ろしい話だよ。とても耐えられない。跡形なく消すべきだ」
鬼は周防の言葉を理解した。
周防が斬りかかる。鬼は刀を左手の甲で受け、周防の腹に小刀を刺した。引き抜き、また刺す。ずらしてもう一度。周防は膝を突いた。引く刀で鬼の指が二本落ちたが、誰も気に留めなかった。
鬼は無感情に、周防は震える手で腹の血を抑えながら、水に目をやった。同時に気を引かれたのは偶然ではない。生まれたばかりの湖は今なお水流を受け入れながら、明らかに水位を下げていた。
魔窟のあった辺りに渦があった。水はその内へ内へと流れ込んでいた。
「地獄の入り口でも開いたのか。里帰りだな」周防が呟く。鬼は首を横に振った。
「洞は確かに袋小路だった。どうにも知らないことが多い」
鬼は土塁から飛び降りた。水のある側へ。
水しぶきは立たない。小刀の魔力がその足を水面から浮かせた。浅くなった水は鏡のように朝焼けを反射したが、鬼の姿は映さなかった。鬼は魔窟に向かい、その内へと消えた。
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