第12話


 知道の「殻」を語るためには彼の思想的遍歴を述べなければならない。といってそれはそれほど複雑なことではない。かいつまんで言えば、彼は人生の出発期において社会変革の思想に触れ、その思想から現在まで離れなかったということだ。

 社会変革の思想、つまり現在の資本主義制度を止揚して社会主義を目指すという思想は大学生だった知道を魅了した。彼はその目標の実現を目指す組織に加入して活動を始めた。しかし、その活動は周囲との摩擦なしに遂行できるものではなかった。それは先ずもって反体制運動であり、反権力の運動だった。現体制を維持しようとする勢力からの封じ込め、弾圧を被らなければならなかった。

 この国にも弾圧の長い歴史があった。この種の運動に対する弾圧は知道が加入した組織が生まれる前から行われていたが、組織が生まれてからはより過酷なものになった。この国が戦争に負け、新憲法が公布されて、思想・信条の自由、結社の自由が謳われるようになると、表立った弾圧は行われなくなったが、陰に回った抑圧、排除、差別は続いていた。憲法が変わり、主権者が天皇から国民に変わるような大変革が起きたにもかかわらず、この国の政治権力を握る勢力は基本的に変わらなかった。国民の中にも長年にわたる激しい弾圧の後遺症が残っていた。この種の運動に対する恐れや嫌悪、忌避の感情が根強くあった。そして現実に政治・経済の実権を握っている勢力がこうした組織や運動を敵視している以上、国民の中にあるそうした思いや感情は単なる後遺症ではなく、現実的な根拠をもつものだった。実際、この種の運動や組織に加わっている者は社会の上層に浮き上がることは出来なかった。その組織に属し、運動を続ける以上、社会的経済的地位において劣位であり続けることを覚悟しなければならなかった。そんな不利な生き方を国民の多くが避けたく思うのは当然だった。

 知道を魅了した思想の基礎にある経済学説は、資本主義社会は資本家が労働者を搾取することで成立していると教えていた。その搾取こそ労働者だけでなく あらゆる人間に対する抑圧の根源であり、人類社会の進歩発展に制約を加えるものだった。したがって、人類にとって希望あふれる時代を切り拓くためにはこの搾取を廃絶しなければならないのだ。知道はそのことを自分の人生の目的に据えなければならないと思った。一方、世の中の多くの人々は現体制を認め、その中でうまく生きていこうとしているのだった。知道の内面に深く刷り込まれたのはこのギャップだった。自分一個の名利を犠牲にして人類全体の幸福のために闘っている者への多くの人々の無関心、無理解、あるいは白眼視は、その要因が権力側の抑圧、操縦によるものだと理解していても、彼には納得のできないことだった。彼は現存する社会とそこに生きる人々を冷めた、白けた目で眺めるようになった。自分と周囲の人々との間に一線を画す意識がこうして生まれた。

 結納の前日、父親から組織を抜けない限りこの結婚は取りやめだと言われた時、知道は、この運動に圧迫を加える世間が父親を介して最後通牒を突きつけてきたような気がした。彼はそれに屈して組織を離れた。これは彼の孤立を更に深めることになった。知道は世間一般の人々と社会に対する認識を異にしていると考え、一線を画していたが、社会に対する認識において基本的に一致する人々との間にも隔たりが生まれたのだった。

 大学を卒業して帰郷後、知道の精神的彷徨は始まった。彼は家業を手伝い始めた頃から、夜になると歓楽の巷に足を運ぶようになった。それは若さから来る欲求もあったが、姉夫婦の下でしたくもない仕事をしなければならない鬱屈や、家業の制約のために自分の思想・信条を隠さなければならい憂さを発散する行為でもあった。しかし、そんな日々の積み重ねはしだいに彼の思想的な節操を腐食させていった。彼が父親の言葉にたやすく屈したのも、内面的な掘り崩しが既に進んでいたからとも言えた。その精神的な空隙に原始仏教は滲透していったのだ。教職に就いた知道の精神的な危機を原始仏教は何度か救った。そのお陰で彼は教員生活初期の危機の時代を乗り切ることができた。そして彼にも一種の安定期が訪れた。生活のための必須の指針として原始仏教に没入していた精神生活に余裕が生まれた。知道は自分の精神史を振り返った。

 組織を離れた知道だが、社会変革の思想を捨てたわけではなかった。原始仏教を自分の思想的原点と考えた時期もあったが、その時ですら彼は社会変革の思想との両立を念頭に置いていたのだ。現実政治に対する態度においても、彼は嘗て自分が属していた組織を支持し続け、保守的な政党や政治家に対する批判をやめなかった。教師として経済的な自立を得た彼は、制約はもちろんあるが、その枠の中では自分の思想を語っても他人から露骨な非難や干渉を受けることもなくなった。

 自分の精神史を振り返った知道は、組織を離れた後も、青年時代に彼を魅了した社会変革の思想から離れられない自分を見出した。そうであれば、その思想を全的に把握しようと、彼はその思想の中核に位置している経済学の大著の読破を思い立った。学生時代に一度挑戦したが、第一部の途中で挫折したままになっていた。知道は通勤の電車の中を含め、ほぼ毎日勤勉な読書を続け、一年半ほどの日数を費やして全四部のその大著を読了した。読み了えた彼は、もっと早く読むべきだったという感想を得た。科学的社会主義と称するその思想は、この著書を読まなければ本当には理解できないものだった。科学的な思考とはどういうものか、学問研究とはどうあるべきを知道はその著書から感銘深く学んだ。こうして彼は社会変革の思想について改めて確信を得たのだ。

 その頭で仏教を考えると、特に人間の社会生活面への考察において、仏教は社会変革の思想に対してやはり見劣りがした。それで知道は自分の思想的重心を仏教から再び社会変革の思想に移した。それは彼がそれまで熱烈な傾倒を示していた原始仏教から離れることを意味した。

 その後、社会変革の思想は知道において個人原理の考え方を結晶させていった。それは様々な事柄の価値判断の基準を個人に置こうとする考え方だ。社会変革の思想において、人間の解放は即ち個人の解放だった。解放は個々の人間の解放にまで至るものであり、そうなって初めて人間の解放は達成されるのだ。解放の最終目標は個人に置かれているのだ。とすれば、最も尊重されるべきものは国家や民族ではなく、個人であった。知道はこの考え方を生き方として実践しようとした。彼は対人関係をもこの個人原理で律しようとした。具体的には、自分が個人として興味、関心、あるいは好意を抱ける人間としか主体的に交際しないことにした。その意識で自分の交際範囲を眺めると、個人的動機はさしてないのに、同じ部署だとか同窓だとかの理由でつき合っている人間が多かった。中には人間的には嫌悪を抱かせる存在なのに、一つの枠の中に括られているためにつき合っている人間もいた。知道はそこに日本人が取り結ぶ人間関係の内実のなさを見た。自分もまたその一例であることが嫌悪された。知道は自分が個人としてひかれるところのない人間、つまり主体的にはつき合えない人間とは努めて口をきかないようにした。

 個人原理の実践は知道を一層の孤立に追い込むことになった。知道の態度への反動として、職場の人々も彼に疎遠な態度をとるようになっていった。親しく声をかけてくる者がいなくなった。知道の態度にある頑なさに呼応するように、周囲の人々もある構えを持って彼に接するようになった。この男とは余計な会話はすまいというような構えだ。それは意図的にその道を歩いている知道にさえ疎外感を抱かせるほど時に辛いものだった。不毛な人間関係が知道を包んだ。何の慰藉もない、ヒリヒリするような乾いた人間関係の中で、俺はなぜここに居続けるのだろうと知道は自問した。食べるため、という答えしかなかった。収入を得るために職場を去るわけにはいかないのだった。それでいい、と知道は思った。彼には自分は少なくとも日本人の人間関係の内実のなさからは免れているという意識があった。日本人は様々な枠で囲われている集団に自己を埋没させている。自己を捨象したところで成立する交際にどんな内実があろうか。先の大戦の敗北に際して、戦争指導者の責任を問わない「一億総懺悔」という馬鹿げた総括が行われたのも、個人不在の集団主義が然らしめたものだった。それから半世紀を経ても日本人の個人意識はなお未確立だ。だから枠で囲われた中での、枠が要求するつき合いしかできず、人間対人間、個人対個人のつき合いができないのだ。個人原理はこうした日本人の欠陥を克服する道である。そんな自負が知道にはあった。こうして今では、知道が職場で主体的につき合う人間はわずか一人になってしまっていた。


 ワラシのリードを引きながら、夕日に照らされる田圃の側道を知道は歩く。暗くなる周囲に、そろそろ引きあげなければならないと思いながら、知道は薄黒い雲が流れる空を眺めた。彼は明日を思い、仕事を思い、職場を思い、顔を伏せた。知道が心の目で眺める人間世界は、どこを向いても敵対に覆われた荒地だった。

 

       

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