第10話


 合理的な判断で同居を決意したはずだったが、昌代の実家で起居を始めた知道には流亡者の感慨があった。住むべき所を追われ、見知らぬ土地に流れてきたという思いだった。しかもそこは必ずしも快適な環境ではなかった。家のなかには彼を苦しめる要素があったし、外には近親者との対立があった。皮肉な表現をすれば、それは流亡地にふさわしい場所だった。といって、自分の実家を振り返っても、そこには姉夫婦との対立があり、それに絡んだ母親との感情のもつれがあった。

 どこにも寄る辺のない身という思いが知道に強く迫るのはワラシと散歩をする時だった。見慣れぬ景色の中を歩いていると、なぜこんな所を歩いているのだろうという思いが浮かんだ。それは心細く、物悲しい思いだった。流刑地を徘徊する受刑者のように自分を感覚するのだ。そんな感覚に囚われると、道を歩いている人の視線も避けたいような気がした。

 散歩するワラシはあちこちで止まっては匂いを嗅ぎ、スムーズには進まない。分岐点などに来ると、道の真中に腰を下ろして動かなくなったりする。そして周囲を眺めやるのだ。知道はそれを「ワラシの世間眺め」と称した。こういう時、知道の気持は二つに割れる。一つはリードを引っ張って早く歩かせようという気持であり、もう一つは心ゆくまで周囲を眺めさせてやろうというワラシに添う気持だ。後者の気持が当初は勝るのが常だ。知道は焦りを覚えながら待つ。道に人が現れ、近づいてくる。側に来た時、知道はその人と目を合わそうか合わすまいかと考える。一目見た印象で目を合わせたくないと感じる人がいる。しかし、相手の様子を確認しておくことは必要だった。犬に対して相手がどんな行動をとるか、あるいは犬の方がその人にどんな反応をするかは安全のために確認を要した。車が来ればもちろんすぐに引っ立てなければならない。次々に現れる人々の視線に知道が耐えられるのは精々五分程度だった。しびれを切らした知道が、「ワラシ、行くぞ」とリードを引いてもワラシは動かない。強く引くと頸部が伸びて腰が浮いた。それでも知道が手を緩めるとワラシは再び座り直そうとする。

 知道は基本的にはワラシの好きなように歩かせた。ふらふらと犬に引かれるような散歩をしていると、自分がますます不甲斐ない人間のように感じられてくることもあった。そんな時、知道は気を紛らすように口笛を吹いた。それは繰り返すうちに、二小節の物悲しいメロディーになった。知道はそれを「ワラシのテーマ」と名付けた。

 散歩をしながら、自分に最も親密な存在は、昌代を除けばこのワラシしかいないのだという思いが知道に浮かんだ。犬にしか心を結ぶ相手を見出せないというのは、情けない、寂しい気がしたが、事実のようだった。周囲の人間の誰彼を思い浮かべても、自分との対立、あるいは隔たりを意識させない者はいなかった。

 

 

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