第9話

 昌代の実家に同居した翌年の正月、知道は三木夫婦を訪ねた。引っ越してきた挨拶をするつもりだったのだが、人に頭を下げることに慣れておらず、また、昌代に冷たい態度をとる梅子に反発する気持もあって、「よろしくお願いします」と形通り素直に言うことができなかった。知道は自分に寛大な三木に甘える感じで、とりとめもない世間話や近況談をしただけで帰った。梅子はそんな知道を眼鏡の目を少しも和ませないで見ていた。その時から梅子の敵意は知道にも及ぶようになった。梅子から実家に電話が入ることがあるが、知道が電話に出ても梅子は挨拶をしなくなった。声で、「あっ、お義姉ねえさんですか」と知道が確認しても、「父ちゃんに代わって」と突慳貪に言うだけだった。知道は不快感を抑えて電話の仲介をした。

 そんなある日、梅子が昌代の店に現れた。店内を眺めるでもなく、椅子にも座らず、梅子はいきなり用件を切り出した。近々医院を全面改築することになった。併せて医院の隣に調剤薬局も建てる。その薬局の土地として昌代の店の土地を買い取りたい、というのだ。昌代は寝耳に水の話で言葉が出なかった。梅子はそんな昌代の顔を承諾は当然という表情で見ていた。昌代は自分の店や仕事に対して一顧の価値も認めていないような梅子に強い反発を覚えた。彼女は店をやめる気はないと断った。すると梅子は、元々この土地は医院が電気屋から買い取ることにしていたものだ、と言った。昌代は、来たな、と思ったが、そんなことを突然言われても困る、と突っぱねた。梅子は鋭い目で昌代を睨み、顔をプイとそむけると出ていった。

 それから一月ほど経って、工事の準備として、医院と昌代の店との境界を定める作業が行われた。測量士が権利書の記載を見ながら巻尺を使って測量し、境界線の両端に境界標を打ち込んだ。医院側は梅子が立会い、店の方は知道と昌代が立ち会った。梅子は測量士の作業を凝視していたが、境界線について異議は唱えなかった。

 ところが、それから一週間ほど経って、梅子が店に現れ、昌代が土地を不当に拡張し、医院の土地を一メートル幅ほど蚕食していると文句を言った。昌代には覚えのないことだったが、梅子の剣幕と、「あんたは泥棒」という決めつけにショックを受けて、うまく反論できなかった。後で知道が質したところ、そんなはずはないと思いながらも、梅子の断定的な物言いに、ひょっとしてそんなことがあったのかも知れないという混乱に陥ったという。

 数日後、知道夫婦は土地の権利書を持って三木の家を訪ねた。権利書にある図面を示して、土地の形が購入時のままであると主張したが、梅子は納得せず、拡張した部分はアスファルトの色が違っているので歴然としていると言い張った。拡張工事などした覚えがない知道夫婦は、医院の土地と接する数メートルの一辺を一メートルほど広げても、駐車がもう一台できるようになるわけでもなく、工事の経費がかかるだけで意味がないこと、もし、そんな工事をしていたのなら、なぜその時文句を言わなかったのかと反論した。梅子は、その時は気がつかなかったし、そんなことをするとは思っていなかったと応じて譲らなかった。測量の時も黙っていたではないかと質すと、知道の存在に威圧を感じて言い出せなかったと答えた。知道はそんな柄ではないだろうと苦笑したが、同時に人を暴力団のように言うのかという怒りを覚えた。梅子の夫の三木は黙っていたが、当然ながら梅子の側に立っていた。三木は梅子の言い分を否定せず、知道達には厳しい視線を注いでいた。三木が唯一力をこめて言ったのは、「境界が確定した今になって言っても遅い」ということだった。それは知道には自分達が不正な拡張をしたと暗に言っているように聞こえた。知道は怒りに駆られて、

「人を根拠もなく泥棒扱いすると、名誉毀損で訴えますよ」

 と言った。すると梅子は皮肉な笑いを浮かべたが、すぐに気色ばみ、

「よく言うわよ、あんた。挨拶もなく人の実家に住みこんどいて。あの家をあんたどうするつもりなの」

 と言った。この時知道は初めて自分に対する梅子の気持が分かったような気がした。彼は梅子のぞんざいな物言いに怒鳴り声を上げたくなったが、

「正月に来たでしょう。確かに、はっきり、よろしくお願いしますとは言えなかったけど、僕としては挨拶のつもりだった。」

 と怒りを抑えて応じた。しかし、そう言った後で怒りがこみあげ、

「それに何もこちらが一方的に頭を下げなければならない理由もないだろう」

 と言った。すると三木が、

「しかし、引っ越してきたのなら、よろしくお願いします、と言うのが礼儀だし、常識だろう」

 と彼には珍しく知道を睨むようにして言った。

「そうですかね」

 と知道は反発した。彼は三木の言葉を素直に聞く気になれなかった。そして、

「もし、こちらの態度が気に入らないのなら、今後付き合ってもらわなくても結構ですよ」

 と言い返した。

「こっちも泥棒扱いをされて付き合う気はない」

 と言葉を継いで腰を上げ、「帰ろうか」と昌代を促した。「悔しい」と家では涙を流していた昌代だったが、交渉の場では元気がなく、口数も少なかった。

「とにかく、この問題ははっきりさせますから」

 と知道は三木夫婦に言って部屋を出た。

 知道は土地の元の所有者である電気店の主人に連絡し、折があれば立ち寄ってくれるように頼んだ。電気店の主人は一週間もしないうちに、昌代の店にその実直そうな顔を現した。知道は主人を、店の裏手の三木医院と接する場所に連れて行った。主人は境界の部分が売却時のまま、何の手も加えられていないことを確認した。ちょうどその時、三木医院の駐車場に梅子の姿が見えたので、知道は声をかけた。梅子は知道たちの姿を見て、悪びれた風もなく、何だ、という顔付きをしてやって来た。頭を下げて挨拶する電気店の主人に梅子は鷹揚に頷いた。

「木下さん、ここは何か手が加わってますか」

 と知道は改めて電気店の主人に尋ねた。

「いや、私が売った時のままですよ」

 と木下は答えた。知道は、

「木下さんもこう言ってるんですよ」

 と梅子の顔を見た。梅子は薄ら笑いを浮かべて、

「何言ってるの。ほら、アスファルトの色が違うでしょう。こっちが木下さんが敷いたアスファルトで、こっちが昌代が広げた部分よ」

 と地面を指差し、「歴然としているじゃない」と、この前と同じ言葉を繰り返した。知道には、どこが「歴然としている」のか、アスファルトの色の違いは全くわからないのだった。

「木下さんがウソを言っていると言うんですか」

 と知道が言うと、

「随分前のことだから分からなくなっているんじゃない」

 と梅子は応じた。 

「木下さん、どうなんですか」

 と知道が訊くと、

「いや、変わってないとおもいますが」

 と木下は気弱な笑いを浮かべた。知道は頷いて、

「アスファルトの色も同じだよ」

 と呟いた。そして、

「驚いたな、あんたには」

 と、梅子の顔を見た。

「何が、驚いたな、よ。こっちの方が驚いているのよ」

 と梅子は気色ばんだ。知道の堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減なことを言うな! 」

 と知道は怒声を上げた。

「何よ、その言い方は! 目上の者に向かって! 」

 梅子も負けずに怒鳴り返した。

「お前とは話にならん! 」

 知道はそう言うと梅子に背を向けた。彼はもっと打撃になる言葉を梅子に浴びせたい気がしたが、「お前」という言葉をぶっつけたのが精々だった。昼日中、しかも家の外での口論はやはり外聞が憚られた。去っていく知道の背に、梅子は、

「お前とは何か! この宿借り! 居候! ゴキブリ! 」

 と罵声を浴びせかけた。

 知道には、梅子、そして三木とも決定的に断絶したことは衝撃だった。こんな事態になるとは、昌代の親との同居を決めた時には予想もしないことだった。このことで判明した梅子の気持も知道には驚きだった。梅子は、妹の夫であり、三木とも仲の良い自分に何かしらの好意をもってくれているだろうと知道は思っていた。ところが彼女にとって知道夫婦は実家の土地と家屋、更には田畑など、自分にも相続権がある財産を奪おうとする存在だったのだ。梅子が昌代に刺々しいのも、根本的には昌代を財産相続を張り合う相手と見ているからだった。知道は親と同居して老後を看てやろうという自分に、梅子は娘として感謝していいと思っていた。ところが実際は正反対なのだった。梅子の目には知道は、自分が相続すべき財産を横取りしようとする「宿借り! 居候! ゴキブリ! 」に過ぎなかったのだ。


       

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る