第8話
昌代の実家は田舎にあった。百万人の人口を有するK市の通勤圏内にはあったが、郡部であり、住宅の周囲には水田が広がる地域だった。
昌代の父親の泰三は町役場を定年退職した後、町の関連施設で五年ほど働き、その後は所有している七反ほどの田畑の耕作で日を送る生活となった。母親のユキエは泰三より二つ年下で、家事の他はやはり農作業が仕事だった。
新環境に移ってきて知道が戸惑ったことが二つあった。一つは泰三とユキエの関係だった。夕食は知道夫婦と泰三夫婦の四人で食卓を囲むのだが、毎度、と言っていいくらい、ユキエが泰三に文句を言い出すのだ。泰三の食事の仕方に対して、「父ちゃん、口をぴちゃぴちゃ言わせなさんな」「肘をつけて食べなさんな」という叱声が飛び、泰三が何かものを言うと、「あんたはいらんことを言いなさんな」「黙って食べり。テレビが聞こえん」と叱るのだった。さらに、「男のくせに口数が多い」「口先だけで実がない」「外面だけ作って家族には冷たい」「私はあんたの犠牲にされてきた」などという批判が次々と飛び出すのだ。それに対して泰三は、「何を言うか」「お前には何も言えんのう」と言うぐらいの反応しかしない。知道にとっては義父が面前でこきおろされるのは聞き苦しいことだった。義理の息子の前で妻からボロクソに言われる泰三の不面目を思うと、泰三の顔に視線は当てづらかった。知道はユキエに直接文句を言うわけにもいかず、婉曲にユキエの口を抑えようとしたが、そんなことで納まるようなものではなかった。長年の怨嗟が胸中でマグマになっているかのように、ユキエの口からは泰三に対する罵言が次々と吹き出してきた。ユキエは泰三のことを、「あんたたちの前では大人しいかっこうしているけど、私と二人の時には激しいこと言うんやからこの人は」などとも言った。「夫婦喧嘩は二人の時にしてちょうだい! いっつもかっつも嫌になる! 」と昌代が大声をあげることもあるが、効き目はなかった。泰三の方も、これだけユキエに罵られながら、本気かお世辞か、ケロリとした顔で、「今日の母ちゃんはきれいだ」とか、「さすが母ちゃんが作った吸い物はうまい」などと言うのだった。つまりこれが二年前に金婚式を迎えたこの夫婦のあり方だった。知道はそれを悟って諦めようと思ったが、ユキエにも泰三にも感覚的になじめないものを感じた。
もう一つ、知道にとって不快だったのは風呂場に脱衣場がないことだった。そのため、食卓の横で服を脱ぎ、下着姿になってから風呂に入るのだった。泰三とユキエはもちろん平気だったが、知道は人前で下着姿になることにも、人の下着姿を見ることにも抵抗を覚えた。また、風呂場は曇りガラスで仕切られており、外からぼやけてはいるが中の様子が見えた。これは入浴中の知道を落ち着かせなかった。義理の親とは言いながら、人の家に住むということは、こうした代償を支払わなければならないのだという苦い思いを知道は噛み締めた。
もう一つ、新生活が知道にもたらした苦汁は昌代の姉の梅子との対立だった。
梅子は昌代より四つ年上で、開業医の息子と結婚し、夫が医院の後を継いだ今は院長婦人に納まっていた。昌代と梅子の仲が悪くなったのは、昌代が医院の隣に手作り品の店を出してからだった。知道が製材所の仕事から手を引き、教職に就いた時、昌代も製材所の仕事から離れた。彼女は以前から興味のあった染色や刺し子、パッチワークなどを本格的に学び始めた。手先が器用で、要領を摑むのが早い昌代は、少し習っただけで見映えのするものを作った。やがて彼女は木目込み人形や縮緬人形の制作も始めた。一方、知道には民芸品や陶器を仕入れて販売していた時期があった。製材所の経営に自分が割り込むのは困難と感じ、また、その気持もあまりなかった独身の頃、その商売で身を立てようかと考えていた時期があったのだ。彼は製材所の敷地の一角に小屋を作り、民芸品や陶器を並べて販売した。もちろんそれで食べていけるような収入はなかった。しかし、知道は結婚後も、半ば趣味という形で、その店を続けた。彼にすれば自分が主人である領域を製材所の一隅にでも保っておきたかったのだ。しかし、その小店は、公司と珠江にとって、あるいは、父親の博道にとっても、知道の腰が家業に据わっていないことの証左にすぎなかった。知道は教職に就くと小店にまで手が回らなくなった。それで昌代がその後を引き継ぐことになった。彼女は自分の作った品物もそこに並べて販売した。しばらくは製材所との共存状態が続いたが、製材所の事務所が建て替えられることになった。国道が拡張され、位置もずれることになり、国道沿いにあった事務所は移転することになったのだ。それで小屋も取り壊されることになった。珠江夫婦の計画には新しい敷地に知道たちの小店を再建することなどはもちろん含まれてなかった。知道夫婦はどこかに店を出すことを計画し、適当な物件を探した。昌代の実家の近所の人が、電気店が店終いするので、土地の買い手を探しているという情報をもたらした。それは偶然にも梅子の医院の隣だった。角地だったので値は安かった。土地代だけを払えばよく、店舗はタダだった。その店舗は外装を一部変えるだけで、手作り品の店として使えた。梅子の医院が隣にあることも当時知道夫婦には有利な条件と考えられた。夫婦は半額を貯金、残る半額をローンで支払うことにして土地を購入した。
昌代は陶器、竹・木製品、布などを販売するほかに、講師を呼び、生徒を募集して、パッチワークや人形制作の教室も店の中で開いた。梅子の態度が昌代に対してはっきりと冷たくなったのはその頃からだった。知道から何かあったのかと尋ねられ、顔を横に振った昌代だが、思い当たることがないではなかった。昌代が医院の隣に店を出すことを告げた時、梅子の表情には驚きとともにある翳りが走った。すぐ「よかったね」とは言ったのだが、その一瞬の翳りが昌代は気になった。その後昌代は、電気店の主人の木下が、隣の医院から店をやめる時は土地を買いたいという申し出を受けているが、院長や奥さんの態度が横柄だから、あそこには売らないと語っていたという話を耳にした。昌代はそれであの時の梅子の表情の原因が分かった。気持は重くなったが、いまさらどうすることもできなかった。店がオープンした時は医院の名で生花をくれたが、その後梅子が店を訪れることはなかった。元々梅子は嫉妬深かった。幼い頃から昌代が自分の持たないものを持つと、それを奪おうとした。昌代がその技能を生かした形で一つの店の主人になり、その店もそれなりに安定してきたことが、梅子の嫉妬心を刺激していることは十分に考えられた。
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