第5話


 朝、知道は学校へ出勤する。昌代はその後しばらくして、これも店へ出勤する。アパートの部屋には子犬が一匹残される。二人が不在の八時間ほどの間、子犬は孤独に過ごす。午後六時に昌代はアパートに帰ってくる。入口のドアの鍵穴に鍵を差し込んで回すと、そのカチャという音を聞きつけて子犬がドアに走り寄ってくる。そしてドアが開くのを待つのももどかしいというように吠える。小さな体に似合わず高く響く声だ。急き立てる吠え声に、「はいはい」と答えながら昌代はドアを開ける。子犬は土間に下りないように置かれているフェンスに前足を掛け、尻尾を振り回しながら懸命に吠えている。待ちに待った瞬間を迎えた喜びを全身で表している。昌代は子犬を抱き上げ、「ワラシ、ただ今」と言って頬擦りする。部屋に上がると素早く室内を点検する。サークルの中に置いてあるトイレのシートに尿の跡がない。おかしいな、と思いながらキッチンの床を見ると、水溜りが光っている。また失敗した。なかなかトイレを覚えてくれない。畳の上にウンチが転がっていたこともある。とにかく第一はトイレの躾と昌代は力を入れていた。

 家に帰った昌代は先ず三十分ほど子犬を相手に過ごす。撫で、抱き上げ、櫛で毛を梳く。そうしながら傷や異常はないか子犬の体をよく観察する。目ヤニが溜っていれば取ってやる。日が経つほど可愛さが増す。子犬の名前はワラシと決まった。子犬は眠る時、俯せになって四肢を投げ出す。まるで行き倒れた人のように。その姿を上から見ると草鞋のようだと知道は言い、「ワラジ」と名づけようかと言った。「ワラジ」はちょっとおかしいと昌代が言うと、知道は、「座敷ざしきわらしという言葉があるな。家の中で飼う座敷犬だし、俺たちの子供みたいなもんだからザシキワラシはぴったりだ。ちょっと長いから縮めてワラシ」 と言った。それで決まった。

 昌代はワラシの体を朝晩熱いタオルで拭いてやった。ワラシが悪いものを口に含まないように畳と床は毎日拭いた。シーズーに関する数冊の本を買い、育て方、躾、食事、罹りやすい病気などについて勉強した。

 帰った時の喜びの激しさを見て、八時間の間一匹だけにしておくのを可哀想に思った昌代は、店にワラシを連れて行くことにした。ところが二、三日それを続けた晩にワラシが吐いてしまった。獣医に診せると、車での往復が疲れるのだと言われた。それでワラシの留守番は元通りとなった。帰ってくるまでワラシはどうすごしているのか昌代は気になった。様子を見に、昼間アパートに戻ったこともあった。部屋にビデオカメラをつけたいよ、と昌代は知道に冗談を言った。

 昌代の行くところに子犬はついてくる。それで昌代は時々姿を隠した。「ワラシ」と呼んでおいて、風呂場やトイレ、箪笥の陰などに入る。子犬は必死で探している。その一途さが隠れて見ていて可愛い。

 知道も勤めから帰ってくると、しばらくの間ワラシと遊ぶのが日課になった。知道は手袋を使って遊ぶ。手にじゃれついてくるワラシを押し返したり、逆に手を引いてはずしたりしていたのだが、手を捉えようとするワラシの動きが次第に熱の入ったものになり、小さな歯や爪が手の甲に立つようになった。といって、傷や痛みを避けるために手の動きを緩慢にしたのでは面白くない。それで知道は軍手をはめた。そして手の動きをさらに早く、力も強くした。ワラシを押し返す力も増し、ワラシは二、三十センチ跳ね飛ばされるようになった。するとそれが子犬をさらに興奮させた。ワラシは口をすぼめてウーと唸り、勢いよく手に飛びかかってきた。ワラシの方も手袋だと遠慮なく噛みつけるようで、攻撃力も増していった。こうしてワラシと知道の軍手を嵌めた手との格闘は、ワラシが疲れて動きが鈍くなるまで十分ほども続くのだった。知道は軍手に紐を付け、それをワラシの前に投げ、ワラシが手袋に飛びかかろうとすると紐を引いてはずす遊びも発明した。ワラシは手袋に飛びつく度にはずされ、次第に興奮してくる。知道は立ち上がって、手袋をワラシの真上から吊るす。ワラシは懸命にジャンプする。身長の三倍ほど跳びあがる。ワラシが跳びあがった瞬間、知道は手袋を引き上げる。ちょっとでも遅れれば手袋に噛みつかれてしまう。はずされたワラシは悔しそうに手袋を見上げて、ウー、ウーと唸る。こうした遊びに知道もいつか夢中になっている。やがて軍手を嵌める動作はいつでも、ワラシとの戦闘開始の合図となった。

 子犬のワラシは昌代と知道の愛情を一身に受けて大きくなっていった。

 ワラシは決まって、夕餉の後、寝転んでテレビを見ている知道の顔をなめた。それは懸命という言葉がぴったりの一途な行為だった。知道にはその行為の正確な意味は分からなかったが、愛情の表現だろうと解釈した。子犬は昌代には別の行動をした。昌代の左手の下膊を前足で交互に押しながら軽く噛み続けるのだ。それは十分以上続くこともあった。生後一月ちょっとで親から引き離されたので、昌代の腕を オッパイの代りにして、淋しさを紛らせているというのが夫婦の解釈だった。夫婦にはワラシが腰板や家具の下の部分を前足で掻きむしるのもなんらかのストレス解消のように思われた。お陰で部屋のあちこちに爪跡の白い線が見られた。中でも木製のティッシュボックスはお気に入りで、全面が掻きむしられて白くなっていた。これはストレス解消というより嗜好の問題だろうが、知道の眼鏡の鼈甲製の蔓は、歯応えがいいのか好んで噛まれ、余すところなくギザギザになってしまった。

 ワラシは夫婦の布団の上で眠った。当初、昌代はワラシをサークルの中で寝かせようとしたが、夜中になると悲しげな声を出して鳴くので、知道が、「構わない、一緒に寝よう」と言い、子犬は夫婦の布団の上で寝るようになった。布団を敷くのは知道の役目だった。布団を敷き始めると、ワラシは面白いことが始まったというように、布団の上や周りを跳びはねた。掛け布団を掛け終わると、ワラシは待ってましたとばかりその上を我が物顔に跳びはね、ぐるぐる旋回した。途中、ピタッと止まって、姿勢を低くし、尻尾を振りながら何か狙うような動作もしたが、すぐに今度は逆回りに旋回を始め、跳びはねるのだった。その振舞いは知道にテレビのCMで流されるアニメの映像を思い起こさせた。それは雪の上を兎が跳びはねるもので、可愛らしい歌とともに流された。それで知道はワラシのその振舞いを「雪うさぎ」と名づけた。ワラシは布団を敷く度に「雪うさぎ」をした。

 犬を家の中で飼うというのは知道夫婦には始めての経験だった。そこには犬についてそれまで知らなかった様々な発見があり、驚きがあった。仰向けに寝る。鼾をかく。寝言のような声を出す。寝返りを打つ。夫婦には犬が示すこれらの人間と共通する行為は新鮮な驚きだった。喜怒哀楽、その時々で異なった動作、表情、声を示す。これも二人を唸らせる発見だった。発見がある度に夫婦は笑顔になって報告し合った。夫婦の話題の中心はワラシだった。知道は、犬は言葉がしゃべれないだけで、人間が持つ感情は全て備えているという思いを抱いた。

 朝、ワラシは夫婦の顔を舐めにくることがある。特に休日の朝は二人の起床が遅いので、早く目覚めているワラシは、欠伸をし、体を掻き、寝室をうろついた後、おもむろに二人の顔に近づく。どちらを舐めるかはその時の気分しだいだ。どちらかというと昌代の方がとっつき易いようで、昌代の顔を先に舐めることが多い。この時の顔を舐める行為には相手を起こすという目的がある。そんな目的があるせいか、舐めようとする前に少しためらう。ちょうど人を起こそうとする人が一瞬ためらうように。ある休日の朝、ワラシが知道の顔を舐めにきた。知道は目を閉じていたが、傍にワラシが近づいてきたことは分かった。薄目を開けると顔の前にワラシがいた。躊躇しているのだ。まだ時刻は早く、知道は眠りたかった。ワラシが顔を舐めようと一歩踏み出したところを知道は手で払った。舐め始めると五分以上は必ず続く。舐めさせないのが一番だと彼は考えた。力を入れたつもりはなかったが、小さなワラシの体は飛んだ。知道は驚いて頭を上げ、三十センチほど離れた掛け布団の上に茫然としたような様子で座っているワラシを見た。彼は「ごめん、ごめん」と言ってワラシの頭を撫ぜてやった。しかし、それ以来、ワラシは朝、知道の顔を舐めに来なくなった。知道はこの時、経験を銘記するという犬の賢さを痛切に体験した。馬鹿にできないと思った。その後、朝、何度か知道の方からワラシを呼び、顔をなめさせた。それでワラシは再び知道の顔を舐めに来るようになった。

 ある晩のこと、「ほら、ワラシが夢を見とるよ」と昌代が言った。横になってテレビを見ていた知道は背中の方に顔を向けた。彼も確かに〈ヒュンヒュン〉という悲しげな鳴き声を聞いたのだ。見ると、丸くなって、顔を毛布に着けて眠っているワラシが、目を閉じたまま、また〈ヒュン〉と鳴いた。知道が犬も夢を見ることを実感した一瞬だった。どんな夢を見ているのだろう、悲しい夢に違いない、引き離された親の夢を見ているのだと知道は思った。

 動物病院というものも夫婦が初めて知った場所だった。夫婦はワラシに少しでも変調が見られると、すぐ病院に連れて行った。吐いた、とか、目の縁にできた腫れ物、耳の内側や爪の間の皮膚の炎症など、ワラシが病院に行く機会は多かった。初めて病院を訪れた時には、周囲の人や物に興味津々たる態度を示して元気のよかったワラシだったが、三回目くらいになるとはっきりと怯えを示すようになった。病院の駐車場に車を停めた時からワラシは震えだした。待合室の椅子に座った知道、あるいは昌代に抱かれている間も、ワラシは小刻みに体を震わせ続けた。診察台の上で、助手の女性から首と頭を押さえられて動けなくされ、注射や、耳の中に鉗子を入れられたりする治療が植えつけた恐怖心だった。待合室から診察室に入ると震えは一層大きくなり、医師が現れると、ワラシは離れたくないというように知道や昌代の胸にぴったりと体をくっつけた。それを引き離して診察台の上に置くと、ワラシは仕方がないという感じで医師に対して尻尾を振るが、その姿勢は頭を低くした上目遣いで、いかにもご機嫌をとっているという仕種だ。しかもすぐ知道や昌代の胸に戻ろうとする。治療が終って、助手の万力のような腕から解放されると、ワラシは一目散に知道や昌代の胸に飛び込んだ。そんな時、知道は震える背中を撫ぜながら、本当の我が子のような愛しさを覚えた。



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