第4話
昌代が犬を飼いたいと突然言い出したのは、知道夫婦がまだアパートに住んでいた頃だった。知道は昌代の言葉を聞いてすぐ、子供の代りだなと思った。
二人は健康体だったが、子宝に恵まれなかった。昌代は人工授精で名高い産婦人科医院に三年通った。家では基礎体温のグラフを怠らずにつけ、受精しやすい頃合に、知道は昌代に言われて病院に行った。個室に入り、渡されたシャーレーに射精するのだ。オナニーによって射精するので、その部屋にはヌード写真を満載した雑誌が数冊置いてあった。ベッドに何人もの男たちの精液がこびりついているような不潔感を知道は感じた。彼は何の記名もないシャーレーを看護婦に手渡す時、一抹の不安を覚えた。もちろん間違いなく処置されるのだろうが、万一、他人のシャーレーと取り違えられたらどうなるだろうという不安だった。もしそんなことが起これば、昌代は他人の子を妊娠することになる。そして夫婦は他人の子を 育てることになる。それは考えると知道には耐えられないことのように思われた。親にとっても子にとっても、取り返しのつかない悲劇だと思われた。子供が大きくなれば、顔つきや仕種などから血のつながりは明らかになろうが、その時はもう遅い。明らかに自分の子ではないと判明した子をそれまでと同様に育てられるだろうか。また、明らかにまではならずに、何となく疑わしいという状況ではどうだろうか。この方が一層耐え難いかも知れない。そんな思いを重ねるうちに不安は次第に大きくなり、三回程通った後では、知道はもう続けたくないという気持になっていた。
知道は自分の気持を昌代に伝えた。昌代は知道の不安をあり得ないことと否定したが、
「子は天からの授かりもので、こんなことまでして子供を持たなくてもいいと思う」
と知道が言うと、悲しげな顔をした。
「あと一回やってみてくれない」
と昌代は知道に頼んだ。
「俺はもう嫌だよ」
と知道は拒否した。昌代は、
「痛いし、恥ずかしいし、あなたより私の方がはるかにつらい思いをしてるのよ」
と言った。そして、しばらく考え込んでいたが、
「わかった。もうやめましょ。あなたがもう子供はいらないと言うのなら」
と言った。そして涙を流した。知道は昌代の涙を見て、自分の言葉が昌代に対して持っていた決定的な意味に気づいた。昌代はこれで母親になれないことが確定したのだ。〈もう一回だけならやってみてもいいよ〉と知道は言いたい気がしたが、その一回が孕む危険に神経質になっている彼にはやはり言えなかった。
知道には昌代に子供を生むことを断念させたのは自分だという負い目があった。だから昌代が犬を飼いたいと言った時、子供の代りだと思ってすぐ賛成した。昌代にはそうでもしなければ満たされない思いがあるだろうと思われた。
昌代が犬を飼いたいと言った翌日、夫婦は届け物があって知道の実家に行った。一ヶ月振りほどになるタケヨに会って一時間ほど話した後、家を出た。車に乗り込んで出発しようとした時、家の門から公司が出てきた。胸に小型犬を抱えていた。昌代はそれを見ると車を降り、公司に近づいて行った。側に行くと、
「ソフちゃん、もう元気になった?」
と声をかけ、犬の頭を撫でた。そして公司に、
「子犬、元気?」
と訊いた。
「元気だよ。見て行く?」
と公司は応じた。二人は再び門の内に入って行った。知道は二人の様子を車の助手席に座って見ていた。公司とは目礼を交わしただけだった。
しばらくして、昌代が門から出てきた。子犬を両手で包むようにしていた。車に乗り込むと、
「子犬をもらってきた」
と弾んだ声で言って、知道に見せた。知道は、
「へぇー」
と驚きの声を上げて子犬を眺めた。頭頂や足先は白いが、全体的に焦げ茶の毛で覆われていた。
「くれたの?」
と知道はひとり言のように呟いた。
「そう。五匹生まれたの。その中の一匹をくれたのよ」
と昌代は答えた。
「この子は長女よ」
「長女?」
「メスが四匹、オスが一匹生まれたのよ。最初に生まれた女の子がこの子」
昌代は子犬を知道に手渡した。彼女は運転をするので抱えておくわけにはいかない。知道は両手を合わせて子犬を受け取った。ほとんど重量を感じなかった。
「いつ生まれたの」
と知道は尋ねた。
「先月の十五日」
車を発進させながら昌代は答えた。
「まだ生まれてから一月と十日ぐらいだね」
と知道は言った。
「大丈夫なの、親から離して」
「もうおっぱいを吸わなくなっているから大丈夫よ」
昌代の顔は嬉しそうに微笑んでいる。知道もその顔を見ると、よかったなと思った。
「それにしてもすごいタイミングのよさだな。きのう犬を飼いたいと言って、今日手に入るとは」
「ソフィアが子犬を産んだことは知っていたのよ。お
「ソフィアって?」
「さっき
「ああ、あれか。あれが母親なのか」
知道は不安そうに周囲を見回している掌の上の小さな生き物を見つめた。
「父親は?」
「父親はボブちゃんよ」
「ボブ?」
「もう死んだけどさ。ほら、
「ああ、あの犬か」
知道は遠い過去を思い出すような表情をした。あの、犬とは思えない、異様な印象を与えた生き物が、この子の父親なのだった。珠江の家庭の事情について、ほとんどコミュニケーションのない知道は疎かった。昌代の方は少なくとも月に一度は珠江に電話を入れ、また珠江からも電話があった。
「なんという種類なの、この犬」
「シーズー」
「シーズー?」
知道が聞いたこともない犬種だった。
「そのボブは死んだの」
「そう。突然ね。散歩していて草叢に入り、何かよくない物を食べたらしいの。突然様子がおかしくなって、病院に連れて行ったけど、だめだったらしい」
「へぇ。じゃ、この子達はボブの忘れ形見ってわけか」
「そうよ。ボブはちゃんと生きた証を残していった、と言ってお義姉さんは泣くのよ。義兄さんも、ボブはやることはやっていたと言うんだからおかしい」
「ボブはいくつだったの」
「一才ちょっとくらいじゃないかな」
知道は子犬を乗せた両手を上に上げた。子犬は不安そうに下を覗いた。罪のない、愛らしい顔だった。小筆の先のような尻尾の先端は白かった。知道は片方の手に子犬を乗せてみた。
「片手に乗るよ」
と知道は昌代に示した。子犬は手とちょうど同じ位の大きさだった。
「この子は今日から一人で生きていくんだな」
と知道は言った。
「親や兄弟たちから引き離されて。それを思うと、ちょっと可哀想な気がするね」
「犬は皆そうなんだから大丈夫よ」
昌代は笑みを浮かべたまま、屈託なく応じた。しかし知道はこの子犬に対して、自分たちが過酷なことをしているような気持が拭えなかった。せめてあと一月ほどは親の傍で生活させてやりたいような気がした。まぁ、とにかく、この子が幸せになるようにしてやろうと、彼は痛々しさを感じさせる小さな体を撫でながら思った。
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