第3話


 如上の経緯があったから、知道と公司の間には顔を合わせても円滑なコミュニケーションはなかった。知道と珠江は血のつながった姉弟だったから、昔のような一心同体感は失われたとは言え、それなりの会話の交換はあった。二組の夫婦の接着剤の役割を果たしていたのが昌代だった。昌代は散発的に発語するだけの知道の分も補って、珠江夫婦の相手をほとんど一人で務めていた。彼女はよく笑い声をたて、屈託なく陽気に話した。珠江夫婦から話を引き出し、自分の考えも述べ、冗談を言い、相手を笑わせた。口数の多い方ではない公司も昌代に対しては快活とも言えるしゃべり方をした。昌代は知道の妻という立場からすれば珠江夫婦と対立する関係だったが、そんなことに頓着していないようだった。彼女が珠江と公司に表立った反発を示すことはなかった。昌代は珠江に対して一歩退いた、控えめな態度を示し、気を遣っていた。といってへつらうのではなく、あくまで自然な振る舞いの中でそれは示された。昌代がいなかったら、除夜の鐘が鳴り始め、日付が変わるまで続く宴はとても持ちこたえられなかっただろう。

 こうして一年の締めくくりと年の初めに、自分の二人の子供とその配偶者を側に集めて、家族的な親和を演出するのがタケヨの望みだった。タケヨのその望みに添うために、対立を秘めた二組の夫婦が、本当は夫婦水入らずで過ごしたい大晦日の晩に、食卓を共にするのだった。その当のタケヨは、会食が始まって一時間もしないうちに食卓を離れ、リビングルームのテレビの前のソファーに座り、趣味の押し花の作業などを始めている。タケヨには痛風や不整脈の持病があるため、酒を飲まず、肉類なども口にしない。宴の料理も別メニューにしてあり、早く食べ終わる。しかし食事が終わってもお茶などを飲みながら会話することはできるはずだ。ところがタケヨは食事が終わるとさっさと席を立つ。そもそも食事をしている時からタケヨはほとんど話をしない。そんなタケヨには、とにかく家族がこの日にこの場所に集まればいいのだという割り切りが感じられた。

 タケヨが、それが望みであるはずの、娘と息子の二組の夫婦に囲まれた和気藹々とした会話をしないのは、彼女がそれぞれの夫婦に対して不満を抱き、従って対立を抱えているからだった。

 珠江夫婦に対しては、主として公司の頼りなさに不満があった。会社の経営状態は決して良好ではない。その証拠に公司は何度かタケヨに借金を 申し込んできた。その総額は既に数千万円になっている。タケヨは経営がどういう状況になっているのか、毎月、月初めに前月の収支報告をするよう公司に求めていた。公司はタケヨから借金した直後はさすがに一、二回、お座なりの報告をするが、その後はナシの礫になってしまう。文句を言っても無駄だ。おまけに借金の返済はない。大体、公司はタケヨを避けるところがあって、顔を合わせてもろくに話をしない。同居していると言っても珠江夫婦は二階に住み、出入口も別に二階に作っている。二階にはキッチン、トイレ、風呂場もあり、階下にいるタケヨとは没交渉に生活できるようになっていた。三度の食事も別だった。娘の珠江はさすがに日に一、二度は顔を見せるが、それも立話程度で、すぐに事務所か二階に行ってしまう。タケヨは自分のための炊事と、階下の掃除のためにお手伝いを一人雇っていた。こうして、博道が亡くなった後、タケヨは一人暮らしのような状況に置かれることになった。その淋しさがタケヨを苦しめた。借金経営をしているのに公司は夜遊びをするようだった。ほとんど毎晩午前様だ。家の外に設えた鉄製の階段を深夜ミシミシと二階に上がっていく音が、眠られずに覚めているタケヨの耳を打つ。仕事絡みの飲みごともあるだろうが、毎晩ということはないはずだ。堪らず、公司を叱るために二階に乗り込んだことも度々あった。激したタケヨは、「あんたを社長にしたのは間違いだった」とか「真面目にやる気がないのなら会社を売ってしまえ」と言ったこともある。こうした言葉が公司の自尊心を傷つけ、自分を一層疎んじさせる結果となっていることにタケヨは無頓着だった。娘の珠江もタケヨに反発した。公司の弁護もあるが、何よりも自分たち夫婦の努力を 認めないタケヨに対する怒りだった。こうして母娘の溝も深まり、タケヨの孤独地獄の打開も一層困難になっていくのだった。

 知道夫婦についての不満は、主に昌代に対するものだった。タケヨには長男の嫁は自分に仕えて然るべきだという思いがあり、期待もあった。それが全く裏切られた。博道が亡くなり、自分が一人暮らしのような状況に置かれ、しかも知道夫婦が昌代の親と同居するようになると、タケヨには、昌代は姑に仕える嫁の義務を放棄して実家に戻ったという思いが強まった。自分の親の世話はするが、嫁ぎ先の親はほったらかしか、という、昌代の親まで含めた怒りがタケヨを捉えた。それが孤独地獄の淋しさに重なると、タケヨは時間を構わず知道に電話を入れた。はけ口は知道しかなかった。あんたも珠江も親不孝だ、とタケヨは嘆いた。あんた達をこうなるように育てたつもりはなかった、年をとってこんな目に会うとは思わなかった、とタケヨは泣きながら訴えるのだった。知道は苛立ちを覚え、うんざりしながら受話器から流れてくるタケヨの声を聞いていた。俺が何か悪いことをしたのだろうか、と知道は思った。確かに自分は親の後は継がなかった。しかしそれはタケヨも知っている通りの事情ではないか。知道と珠江の二組の夫婦が対立していた時、知道に、「あんたはやっぱり別の道を歩いた方がいいようだよ」と言ったのはタケヨだったはずだ。教員免許は取っても積極的に教師になりたいという気持はなかった知道だったが、その言葉を聞いて、教職に就くことを決意したのだ。そして何とか今まで親の世話にもならずに自活してきた。それを親をほったらかして好きなことをしていると言われるのは納得がいかなかった。昌代が嫁としての務めを果たしていないと言われても、同居していないのだから、果たしようがないではないか。それとも毎日の炊事、洗濯に、車で片道三十分以上かかる距離を通えと言うのだろうか。珠江夫婦が二階に居る以上、同居はできないではないか。そして珠江夫婦との同居を決めたのは博道とタケヨだったはずだ。知道はそのように思うと、受話器から延々と流れてくるタケヨの嘆きと非難が何とも理不尽に思われて腹立たしく、タケヨに対して声を荒げて反発することが度々あった。そして親を罵ったことに後味の悪い思いを繰り返すのだった。

 知道が教職の道を選んだのは家業の経営をめぐる、つまりは財産をめぐる醜い姉弟の争いをしたくなかったからだった。当時、仏教に傾斜しつつあった知道は、欲を捨てて争いを避けた立派な行為と自分の選択を考えた。珠江夫婦も感謝するだろうと思った。ところがその後の二人の態度にはそんな気持は感じられなかった。冷ややかな敵対的雰囲気は消えなかった。知道の選択は珠江夫婦にとっては、腰の据わらない知道が予想通り無責任に家業を捨て去ったということに過ぎなかった。そしてそれはタケヨも同様なのだった。こうした結果は知道にとっては全く意外であり、不本意なことだった。

 宴も二時間も続けば話にも倦んでくる。しかし時刻はまだ紅白歌合戦がようやく始まろうとする頃だ。知道は宴の長さにうんざりしていた。ワラシはどこにいるだろう、と彼は周囲に目をやった。が、姿が見えない。

「ワラシはどこへ行ったかね」

 と知道は昌代に尋ねた。昌代も周囲を見回して、「ワラシ」と呼んだ。

「ワラシはここにおるよ」

 と押し花をしているタケヨが振り返って言った。知道が立ち上がってリビングルームを覗くと、食卓からはガラス障子の陰になって見えないソファーの上にワラシは丸くなって寝ていた。ワラシも今日は里帰りだ。三十分程前、二階からワラシの母親のソフィア、そして妹達が下ろされてきて、一頻り騒ぎ、愛嬌を振りまいたところだった。その時には一緒になって飛び跳ねていたワラシだったが、今はもう寝ているのか、と知道は微笑ましく思った。

 それは三年前の同じ年末の宴での出来事だった。それが知道がワラシと出会う発端となった。時刻も同じ頃だったろう。知道が宴に倦み始めた頃だった。その時、珠江夫婦の長男の光広が二階から下りてきた。胸に灰色の毛に包まれた動物を抱えていた。光広が床に置くと、その生き物は勢いよく食卓に向かって走った。そして会食者の椅子の周りを飛び跳ね、ぐるぐる回った。それは毛むくじゃらで、目も口も毛で覆われてよく見えない、鼻ぺしゃの動物だった。知道は一瞬何だろうと思った。狸かイタチの類の生き物のように思われた。犬だと言われたが、ピンとこなかった。第一、家の中にいる犬というのが彼には想像しにくかった。犬だとしても、それは彼が初めて見る種類のものだった。その犬は知道が気に入ったのか、彼の脚を前足で挟んで、腰を前後に動かすような動作を何度もした。知道は苦笑しながらその犬の顔を見た。毛の間から、丸い、黒い目が彼を見上げていた。意外に大きな目だった。ぺしゃんこの鼻は黒く、その下の口は開いていて、桃色の舌が見えた。可愛いとは思えなかった。彼にはむしろ異様な面貌に思われた。公司が三ヶ月程前、ペットショップで買ったということだった。少しもじっとしていない犬で、せわしなくあちこちと動き回り、会話も一服状態になっていた食卓をしばらく賑わせたのだった。


      

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