第11話 ウソ泣き

「さあ、この子を止めてちょうだいな」

 おばあちゃんは、難解かつ難題な要求をさらりと口にした。――まるで、ちょっと消しゴム貸してくらいの感じで。


「とっ、止めるって⁈ 意味分かんないし! あっ、ゴメンなさい。言ってることは解るよ。状況もよーく分かってる。えーっと、なんて言えばいいのかな」

 今まで使ってこなかった脳細胞のシプナスをフル稼働させるが、適切な語彙がアウトプットされてこない。切迫した状況がさらに焦燥感を増幅させる。


 おばあちゃんは、小首をかしげて言葉の続きを待っている。――って、アンタそんな余裕ねーだろ!


 しまった! 頭の片隅が意図せず突っ込みを入れてしまい、残された僅かな時間を浪費してしまった。もう、そんな余裕すらないなのに。

 もどかしさと苛立ちから、地団駄を踏みたくなる。


「つ、つまり、あたしは何をすればいいの⁈」


「――こうするのよ!」

 突然、背後から声がした。

 と同時に、穂香ほのかの身体がUFOキャッチャーの景品のように引き上げられる。――夕子だった。夕子が、穂香ほのかを指でつまんで持ち上げていたのだ。


 突然の事態に状況を理解できず穂香ほのかはキャーキャー悲鳴を上げながら、釣り上がったばかりの活きのいい魚のように身体をばたつかせている。

 こんな状況でもスカートを押さえているあたりに、辛うじて女子高生としての片鱗がうかがえた。

 つまみ上げられたまま、ひさしのうなじのあたりまで運ばれる。


穂香ほのか! 早くそいつに取りいて!」

 穂香ほのかをうなじのあたりに降ろすと夕子が叫んだ。


「えっ⁈ なに? どういうこと?」


「取りいてそいつの動きを止めるのよ」


「あっ、そっか! うん、分かった!」

 穂香ほのかは以前、夕子が青年実業家らしき男性に取りこうとしていた時のことを思い返した。

 あの時、夕子はどうやっていただろう。思い出せ。――そうだ、確か夕子は男性の背中にハグをしていた。


「えーい! もうヤケだ!」

 半ば捨て鉢になりながら、ギュッと目をつぶってひさしのうなじに全身でへばり付いた。――もとい、抱きついた。


 目を閉じているはずなのに外の景色が見えてきた。頭に映像が入ってくる感じだ。――いつもの見慣れたホームが見える。ただ、いつもと状況が決定的に異なるのは、覆いつくさんばかりに巨大な電車の真正面が、すぐそこまで迫ってきていることだ。

 そうか。これは、ひさしが見ている世界だ。穂香ほのかは、考えるわけでもなくすぐに理解した。そして、覚悟を決めた眼で電車を見据え、すかさず行動に移る。


 つんざくような電車のブレーキ音が駅の構内に響き渡った。ホームにいた人々が一斉に耳を抑える。

 急停止した電車から車掌が慌てて窓を開け、こちらを振り向き首にぶら下げていた警笛を鳴らした。ホームにいた駅員たちが駆け寄ってくる。


 電車内では、突然の急ブレーキに乗客たちが激しくよろめいた。あちこちで悲鳴が聞こえる。電車が止まると、乗客たちは何事かとあたりを見渡す。――乗客の一人、つり革につかまっているおばさんが絶句して目を丸くしている。彼女の視線の先、というより電車の窓ガラス一枚隔てたすぐそこに、ひさしの姿があった。


 ――どうやら間に合った。とっさのことで、なにをどうしたかはっきりと覚えていないが、穂香ほのかひさしの動きを止めることに成功した。

 覚えているのは、ずっと鼻先をかすめ続ける電車の側面が猛烈に怖かったことだ。


 穂香ほのかは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。穂香ほのかの身体はひさしのうなじにしがみついたままである。

 ふと気が付くと、おばあちゃんが笑顔でこちらにグッドジョブのサインを送っている。

 穂香ほのかは、その笑顔に吸い寄せられるように、まだ震えが残る足でおばあちゃんの所へ向かった。


「――へへっ、ちょろいもんだぜ」

 楽勝と言わんばかりに、穂香ほのかはおばあちゃんにグータッチを差し出す。


「おつかれさまでした」

 おばあちゃんもグータッチに付き合ってくれた。


 グータッチを交わし互いの瞳が交わった瞬間、ふいに全身から力が抜けてしまい、穂香ほのかはその場にペタン座りしてしまった。

 どうやら、腰が抜けてしまったようだ。

 いつの間にか涙が頬を伝っている。――いや、どんどん流れてくる。


「怖かったのよねぇ、怖かったわよねぇ。――ごめんなさいね。こんなにも怖い思いをさせてしまって」 

 おばあちゃんは、両膝をついて穂香ほのかを包み込むように抱きしめた。そして、慈しむように愛おしむように彼女の背中をさする。


「うっ・・・・・・うぐっ・・・・・・ふえーん! うん。怖かった! 怖かったよー!」

 背中から伝わってくるその手の優しさを感じ取った瞬間、ずっと張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れてしまった。――幼児のように泣きじゃくる。

 ひさしと同化した右腕から、彼の希死念慮が伝わった時、戦慄を覚えるほど怖かったこと。そして、もうダメだと諦めたこと。それでも、なんとか助かるために勇気をふり絞って迫りくる電車を見据えたこと。

 伝えたいことがたくさんある。すべて分かってほしい。――頭の中で様々な言葉や色んな感情が入り混じって濁流のように押し寄せる。しかし、涙が止まらず、なにも言葉にすることができない。


 それでも、おばあちゃんは穂香ほのかの涙の意味するところを理解して、うんうんとうなずきながら包み込むように優しく穂香ほのかの背中をさすってくれる。

 おばあちゃんは、穂香ほのかが泣き止むまでずっと背中をさすってくれた。


 心ゆくまで泣くことができたので、そろそろ泣き止んで顔を上げようと思ったが、やっぱりやめた。――急におばあちゃんに甘えていられるこの時間ときが惜しくなったのだ。

 ウソ泣きは疲れるので、おばあちゃんの胸に顔を埋め、肩を震わせ泣いているふりをする。


 埋めたその顔のことを悟られないよう祈りながら・・・・・・。

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