第9話 雨降りの後の朝

「んーっ! スッキリしたー。やっぱ、どうしようもない時は泣くに限るね」

 正午前のまばらな駅のホームで穂香ほのかは、バッチリ睡眠をとった後のような爽やかさで、大きく伸びを打った。

 そして、ケラケラと笑いながら『思いっきり泣いて元気になる穂香ほのかメソッド』と即席で命名し、この方法を考案したママの偉業を誇らしげに身振り手振りで夕子に語り始めた。


 思わず夕子の口から言葉が漏れる。

穂香ほのか、あなた。――ひょっとして天才?」


 なんら事態は進展も好転もしていない。ただ、二人の地縛霊が肩を抱き合わせガン泣きしただけである。もちろん、解決の糸口も見出せていない。

 もしも解決の糸口、つまり地縛霊が成仏できる方法が地縛霊なかまを増やすことというのであれば、彼女らはそれを選択肢から除外している。


 ――それでも、穂香ほのかは明るく笑う。

 目を赤く腫らせて屈託なく笑うその姿は、雨露をたっぷり含んだ森の木々が朝日を受けて一斉に光り輝き、森全体が黄金色に染まるそんな雨上がりの森の朝を連想させた。


(このはまるで太陽だ)そう思いながら、夕子は指先で涙を拭う。穂香ほのかの無邪気な笑顔に触発されクスッと微笑が漏れた。しだいにフフフと笑い声に変わり、ついには、こんな状況でも笑える自分が可笑しくなり二人でポンポンと肩を叩き合った。


 穂香ほのかといると絶望が希望に変わる。穂香ほのかは元気をくれる。


 そう、彼女はお日さまのようだ。――無邪気な明るさで人にきぼうと温もりを与え続け、彼女自身は何ら見返りを求めない。


 夕子は生前、自分のために温かい涙を流してくれる友人に出会ったことがなかった。それが、ようやく今になってそのような友人を得ることができたのだ。

 嬉しくて心が震える。この温もりを忘れたくない。味わうように嚙みしめるよう反芻はんすうしながら、胸に手を当てそっと目を瞑る。


 夕子がしばらく余韻に浸っていると、遠くから穂香ほのかの呼ぶ声が聞こえ、ふと我に返った。


「ねぇー、夕子? あたしは人を引っ張ることができるんだろ。でもさー、やっぱり誰にも触ることも引っ張ることもできないよ。なんで?」

 穂香ほのかは、ホームにいる人達で触れられるか検証実験を再開したようだ。接触するターゲットをイケメン限定としている辺りはブレていない。


「私だって解らないわよ」

 切り替えの早いだな、と軽くため息をついて、夕子も手近な人物で触れるか試みた。やはり触れることはできない。

 これを能力と言うのなら、何らかの発動条件があるのだろう。彼女はシャープなあごに手を添えて、地縛霊が物体に触れることができる条件について考える。と、その時――


(んっ⁈ なにこの匂い?)背後から強烈な臭気を感じ、夕子は顔をしかめながら振り返る。そこに一人の男がいた。

 男は、おぼつかない足取りで強烈な酒臭さを振りまきながら、夕子のすぐ脇を通り過ぎた。伊地知いじちひさしだ。

 ボサボサの頭と生気なくサンダルを引きずるようにして歩く姿、それと、強烈な臭気。夕子は説明のつかない違和感を感じ取った。

 夕子が感じた違和感とは、ひさしの酒臭さがあまりにもダイレクトに伝わったことである。――まるで、ひさしが自分たちと同じ側の存在であるかのように。


「その男なんか違う! 気をつけて」

 胸騒ぎを覚えた夕子は思わず穂香ほのかに叫んだが、何が危険なのか自分でも解らない。


 ひさしは、ふらふらとホームを歩きながら穂香ほのかの方へ近づいてゆく。

 穂香ほのかも千鳥足の男の存在に気づいたようだ。手頃な獲物を見つけたとでも言うような表情をしている。


「おう、おっさん! 酒臭えんだよ。真っ昼間から酔っぱらうとはいいご身分じゃねえか。ああーん?」

 穂香ほのかは腰に手を当て、下から舐めるような視線で見上げながらひさしに絡んでいる。どうやら、不良の真似事をしているようだ。

 むろん、ひさしからの反応はなく代わりに、穂香ほのかの顔面に向け大きなゲップをお見舞いした。


「むをっ⁉ くっさー! ったく、このやろ!」

 穂香ほのかは鼻をつまみながら、空いている右手でひさしの襟元に手を伸ばした。


「ダメっ! 穂香ほのか!」

 夕子の悲鳴に近い声が穂香ほのかの耳に届くと同時に、穂香ほのかの右手はひさしの襟元をしっかりと

 

「んっ、あれっ⁈ 。――やったー! 夕子、触ることができたよー!」

 ついに人にことができた。ひさしの襟元を掴みながら歓喜の瞳で夕子を探す。襟元を掴まれているひさしに反応はない。夕子をはすぐに近くにいた。


 夕子は表情を失い呆然と立ち尽くしている。


 表情を失った夕子と目が合った瞬間、自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと不安がよぎる。


穂香ほのか・・・・・・。あなた、それ・・・・・・」

 夕子は、誇らしげに襟元を掴んでいる穂香ほのかの右腕を指さした。夕子の指先が小刻みに震えている。


 穂香ほのかの右腕はひさしの襟元を掴んでいなかった。――掴んだと思ったその手はひさしの身体に入り込み、手首のあたりまで胸元にすっぽりと入り込んでいる。

 それを目にした途端、言いようのない悪寒が背筋を駆け抜け、慌てて右腕を引き抜く。――否、引き抜くことができなかった。


「ウソっ・・・・・・。なんで⁈」

 穂香ほのかの右腕はひさしの身体と同化したように入り込んでおり、いくら引っ張っても抜き出せない。なんとか引き抜こうと懸命にもがく。


(どうせ投げてる人生なんだ。このまま投げ捨てちまえ)突然、穂香ほのかの頭に思念が伝わってきた。

 どうやら、その思念はひさしと同化した右腕から伝わってきているようだ。

 穂香ほのかは戦慄してひさしの顔を見上げる。


 ひさしは缶チューハイを飲み干すと、ごみ箱に空き缶を放り投げ線路の方へ向けてふらふらと足を進めた。

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