第8話 不文律の掟 その3 ~失望・絶望・それと安堵~

 薄暗い1DKアパートにスマホのアラーム音が鳴り続けている。パイプベッドからにゅっと手が伸びてフローリングにあるスマホのアラームを止め、そのままゴトっと床に落した。しばらくもぞもぞと布団が動いていたが、じきに動かなくなってしまった。


 数時間後、スマホからアラーム音ではなく着信音が鳴り響いた。また、パイプベッドからにゅっと手が伸びる。『コラッ! ひさしっ! てめぇーまた遅刻か⁈ 牛丼屋の昼は戦場って知ってんだろが! 聞いてんのかコラ・・・・・・』スマホから響く罵声を電源ごと断ち切った。


「ふぁ~めんどくせぇ~」

 ようやく、パイプベッドからむくりと起き上がり大きく伸びを打った。

 何気にカーテンを開くと、正午前の強烈な陽ざしが薄暗い室内に光の束となって射し込み、伊地知いじちひさしは思わず目を瞑りカーテンを閉じた。


 ひさしは、寝坊の言い訳を考えながら台所で口をゆすぐ。――適当な言い訳が思いつかなかったので考えることを諦めた。店長に𠮟られればいいだけじゃないかと開き直ることしたのだ。


 最近、人からどう思われようと気にならなくなった。――世間が自分に関心など持っていないと気づいてから、自分の存在がひどく透明で薄いものに感じられるようになった。

 誰からも期待されていないのだから、誰の期待に応える必要はない。レトルトカレー食って缶チューハイが飲めりゃあそれでいい。ひさしは冷蔵庫から缶チューハイを取り出しヒゲも剃らずにアパートを後にした。


 薄暗い無人のアパートに、カーテンの隙間から漏れた一条の光が差し込む。

 光はまっすぐ部屋の奥まで差し込み、埃まみれのフローリング、散乱するチューハイの空き缶、そして、カラーボックスの中でコミックや雑誌に埋もれた一冊の使い古されたレシピ本を射した。

 

◇   ◇   ◇


「最後に三つ目、これが一番大切ね。――どうやったら、私たちが成仏できるのか」

 

「・・・・・・。うん」

 いつも大人の余裕を感じられる夕子から、真剣な表情を感じ取り穂香ほのかは唾を飲んだ。


「あの時『ナ・ス・へ・キ・ヲ・ナ・ス』って、五円玉が動いたよね。ナ・スってやっぱり茄子だよね? 茄子を使ってどーするんだろ?」

 夕子が成仏できる方法について、ストレートにコックリさんに訊ねてくれたから、はっきり覚えている。


「『為すべきを為す』ってことよ。やるべきことをやりなさいって意味。っていうか、あなたホントに何も自分で考えないわね」

 私は穂香ほのかの母親じゃないと言いたげに、夕子は肩をすくめる。


「じゃあ、あたしたちは何をすればいいのさ? 何をするべきなの?」

 自分で考えろと言われた矢先に、臆面もなく質問できる。これは、もはや穂香ほのか特技スキルと言ってもよいだろう。


「そ、そりゃあ、私もはっきり分からないけど。――でも、地縛霊の本懐というか本質というか・・・・・・そこら辺から何らかのアプローチが開けるんじゃないかな」

 珍しく夕子が言葉をくぐもらせた。


(ムフ。なんか嬉しい)自信なさげな夕子の姿に、穂香ほのかはどこか溜飲の下がる思いがした。最近やられっぱなしだったことを、頭の片隅で根に持っていたようだ。


「地縛霊の本懐と本質ねぇ。やっぱ以前、夕子が言ってたアレのこと?」


「そう。――地縛霊は地縛霊なかまを増やすってことかもね」


「うーん。でもさ、地縛霊を増やすことで、あたしたちが成仏できるってチョベリバ(訳:非常に最悪)くない⁈ うん! ダメだよ絶対!」

 穂香ほのかの心に義憤という火柱が立ち上がった。


「あのね、穂香ほのか・・・・・・。あなたの言いたい事は分かるんだけど、そんな旧石器時代の原人が使うような言葉を使われると、そっちの言葉が耳に残って何も言い返す気が起きないのよ」

 夕子は、申し訳なさそうに眉を下げる。


「そっか、そうだよね。――ゴメン・・・・・・」

(えっ⁈ チョベリバって、いつからそんなにヤバい言葉になってたの?)まさかのダメ出しを受けてしまい穂香ほのかの頭は羞恥心でいっぱいになる。

 その結果、せっかくおこした義憤という火柱はあっという間に火勢を失い、瞬く間に風前の灯火へと変わり穂香ほのかは口をすぼめた。


「じゃあ夕子、一つ教えてよ。地縛霊を増やすことであたしたちが成仏できるっていうのなら、あんた今まで何人、地縛霊なかまを増やしたの?」

 主導権が奪われつつあることを感じ取り起死回生の反撃を試みる。そして、これが意外にも夕子への決定打となった。


「うぐっ、ゼ、ゼロよ。・・・・・・ええっ、ゼロですとも! やろうと思って背中にいても、そこから先に進む勇気がなくて・・・・・・それに、いつも穂香ほのかが邪魔に入るし・・・・・・。本当は私だって、人の命を奪うだなんて考えただけでも怖くて・・・・・・」

 夕子は胸のうちを明かした瞬間、その場にしゃがみこみ泣きじゃくった。


「だよな。――あたしらには人を殺すことなんてできないよ」

(結局、どうやったらあたしたちが成仏できるか、はっきり解ってねーじゃんか)ため息交じりに、肩を震わせて嗚咽する夕子の背中をそっと抱きしめる。


 やっと地縛霊から解放されると期待していたのに、その明確な方法が判らなかった失望感。もしかしたら人の命を奪う必要があるという絶望感。そして、夕子が人殺しなどできる人間ではないと分かった安堵感。


 入り乱れた感情が穂香ほのかの胸のうちで激しく攪拌され、何も考えられなくなってしまった。こみ上げてきたものを堪えきれず、まるで子供のように大声で泣き始めた。

 『大声で泣いたら気持ちいいでしょ――』小さい時ママに慰めてもらった言葉が思い出され、さらに大きな声で泣き叫ぶ。


 いつの間にか、夕子と二人で肩を抱き合わせておいおいと泣いていた。



「んっ? 誰か泣いてんのか」

 ひさしは、足を止めて辺りを見渡した。――ホームにそれらしい人影は見当たらない。空耳かと呟き缶チューハイをぐびっとあおる。

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