第4話 東武東〇線のOL地縛霊


 ホームの片隅で、蜃気楼のように空間が揺らいだ。後ろの自販機が歪んで見える。

 やがて、揺らいだ空間から人の輪郭をした黒いもやのような物体が湧き出してきた。


(くそっ! ほんわかとしたハートフルな時間が台無しだぜ)その物体を見て穂香ほのかは忌々し気に舌打ちをした。


「なんだよ、またアイツ来たのかよ! マジ、ウゼーし! ホント、超SS(訳:最低最悪)」

 平成の中頃に絶滅したギャル語をフルスロットルで使い悪態をつく。


 黒いもやは、しばらくその場に佇んでいたが、しだいにもやの輪郭がさらに人の形に定まってくると、ゆらりゆらりと移動を始めた。


 サラリーマン風の男が、黒いもやをすり抜けて、自販機のボタンを押した。どうやら、この物体も穂香ほのか達と同様に、普通の人間には触れる事も視ることもできないようだ。 


 その物体の向かう先には、高級なブリティッシュスーツがよく似合う青年実業家を思わせる佇まいの男性がいた。


 音もなく黒いもやは青年実業家の方へ忍び寄り、やがて彼の背後にぴったりといた。


 青年実業家は背後の気配にまったく気づく様子もなく、ビジネス雑誌に目を落している。

 ところが、彼のページをめくる手が不意にピタリと止まった。そして、バサッと雑誌を地面に落とし、焦点の定まらない眼でしばらく立ちすくす。


 それから、青年実業家は、ぼんやりとホーム下の線路を眺め、吸い込まれるようにゆっくりと足を進め始めた。


 そんな彼を急かすように、促すように、後押しするように、青年実業家の背中にいた黒いもやは、じわりじわりと彼を線路の方へと圧力を強める。


 やがて、青年実業家の足が点字ブロックを踏み越えた。その時――


「おいっ。何をしようってんだよ」

 穂香ほのかは、無造作に黒いもやの肩のあたりを掴み、強引にホームに叩きつけた。叩きつけられた衝撃で黒いもやが吹き飛ぶ。


「っ、イタタ・・・・・・。このっ、暴力JK! 顔に傷がついたらどうすんの!」

 黒いもやの中にいたのは、白のスカーフタイフレア袖ブラウスに空色のプリーツスカートがよく似合うオフィスカジュアルな装いの女性だった。

 清楚な顔立ちを歪め、獲物を横取りされた肉食獣のように穂香ほのかを睨み上げる。


(やっぱりね。――幽霊同士は触れることができる。これは変わらないんだ)何が悲しくて幽霊同士が触れ合う必要があんだよ。と穂香ほのかは毒づく。


「おっはー(訳:おはよう)。朝比奈あさひな 夕子ゆうこ。あたしはあんたが、このオッサンに何をしようとしたか聞いてんだけど」

 穂香ほのかは、しゃがみこんで夕子と目線を合わせた。


「JKがOLを呼び捨てするな!」

 

「何言ってんの? あたしら、おな中(訳:同じ中学出身)じゃん。しかも、2年生の時クラス一緒だったし。――ただ、あたしの享年があんたより早かっただけさ」


「何をするって――私たち地縛霊のやることは、一つに決まってるじゃないの」

 夕子はプイッと横を向き、ホーム下に目線を送る。


「地縛霊は、地縛霊なかまを増やし続けるか・・・・・・。」

 納得できていないという面持ちで、穂香ほのかは頭を掻いた。


 しばらくして、夕子は俯きがちに口元を押さえながらボソリと呟いた。

「・・・・・・。ブルードゥシャネル」


「ん? 何それ⁈ 美味しいの?」

 急にフランス料理みたいな言葉が出てきたため、バカ丸出しな質問だったが、穂香ほのかに臆面の文字はない。


「彼が纏っているコロンの名前」

 うっすらと夕子の頬が朱色に染まる。


「ああ。オッサンから、蜜柑みかんのような香りがするね。それのこと?」


「JKには解らないよ。年齢を重ねたいい男が醸し出す体臭と、ブルードゥシャネルの香りから生み出されるアンサンブルは・・・・・・。猛々しい野生と煽情せんじょう的な官能が濃密に入り乱れたその香りは、女の脳にダイレクトに伝わってくるの」


「発言が・・・・・・なんかエロイ・・・・・・よ」

 夕子の口から出た生々しい言葉と彼女の清楚な顔立ちのギャップが、必要以上にエロスを増幅させる。


「彼にハグして解ったことがあるんだ」


(背中にくことをハグって言うんだ・・・・・・。日本語って便利だなぁ)穂香ほのかは、呆れるを通り越して感心してしまっている。


「私ね、彼に一目惚れしてしまったみたい。——だから、彼の事を陰からそっと後押ししてあげたい。二人で寄り添っていきたい——そう心に決めたんだ・・・・・・」


(うん? 『後押し』って、本当に背中を押すことだったかな?)夕子につっこみを入れたかったが、自分の教養に自信がないため、機を失してしまう。


「でもさー。オッサンを線路に突き落とすことが、夕子の言う寄り添いなのか?」


「そうよ。——地縛霊となって毎日、二人で陽の光を浴びながら生まれ変わってゆく街を飽きることなく眺め続けるのよ」


「そっか・・・・・・。スゲー美しい光景が目に浮かんだよ。——あたしも応援してあげたくなっちゃった・・・・・・。でもね、ここ地下鉄だよ⁈」


「っつ! いいの! そこは想像力でカバーするから」


「それにさぁ・・・・・・。あんな男のことなんてさぁ、もう忘れちゃいなよ」

 穂香ほのかは、申し訳なさそうに眉を下げながら、くいっと親指でホームの乗車口を指さす。


 そこには、すでに電車に乗り込んだ青年実業家の姿があった。




 その瞬間、夕子は力なく膝から崩れ落ちた。

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