1-5 大きな卵

 ――ザラメ婆様は、まず「コー・ミ・ズー・オ・ゼ」と言った。


 直訳すると「なぜ大きな卵は孵った?」という意味だ。ザラメ婆様は、リュクの種を捨てながら、「キ・ウー・トトゥ・スラ・キー」、つまり「地水火風が持ってきた」と続ける。


 シルベーヌ先輩はそれを速記記号でメモしていく。


「コー・ミ・キト・キラグ」宇宙には光と闇がある。コー・ミというのは大きな卵という意味の言葉だが、転じて宇宙を指す言葉ともなった。


 ザラメ婆様の語るクー語の伝説は、まるで美しい一篇の詩のようだった。歌のようだった。魂から古い時代に帰っていく感覚がする。『大きな卵』の伝説を語り終えて、ザラメ婆様は玄米茶を口に含む。


「……いまので分かったかしら?」


「はい。ありがとうございます」シルベーヌ先輩は頭を下げた。いやいまので分かるのか。


 シルベーヌ先輩に説明を求める。シルベーヌ先輩は、

「世界の始まりは大きな卵で、それが地水火風の力を受けて孵化して、宇宙、すなわち光と闇ができた――そういう解釈でいいのですか?」と、ザラメ婆様に訊ねた。


「まあ賢いお嬢さんだこと。その通りよ。でもここでいう光と闇、つまりキトとキラグは、神都の人が知っている光と闇とはちょっと違うかもわからないわね」


「なるほど。もっと、世界の根源に近いということですか」


「そうね。私にはキトとキラグという表現があるからうまく説明できないけど」


「うむむ深い」シルベーヌ先輩は首をひねった。その言葉の話者でなければ理解できない表現というのがあるのだろう。言葉というのは実に深いものだ。


 しばらくシルベーヌ先輩がザラメ婆様にインタビューを続けた。いまこの村では手習い場があるのか、とか、そういうほかの人に訊いたってよさそうなことを訊ねる。


「手習い場ならあるけれど、ほとんどの子供が田畑の仕事の手伝いをするから、手習い場にいく子供は少ないわね」との返事。


「それでクー語が残ったんですか」


「そうねえ。でもそれは、女に学問は必要ない、みたいな悪質な考えから来てるの。女だって学問を修めれば、あなたがたのように中央学府に進む人だっているだろうに」


 言葉や風習や文化が残されているということは素晴らしいことだ、という前提で話を進めてきたので、まさか学ぶ権利というところまで飛び火するとは思わなかった。


 そうだ、学ばねば分からないことはたくさんある。実際にこのザラメ婆様は、手習い場にあった神都語の本を見てこの美しい発音を体得したのだ。俺だってそれに近いかもわからない。


「学問は大事よ。学問でいろいろなことを覚えるのは、働くのと同じくらい尊いこと。こういう田舎では学問はおろそかにされがちだけれど、学問ができるのは素晴らしいこと。中央学府の学生さんは、『働く人のほうが偉い』ってけなされるって聞いたけど、でも勉強できることは尊いことよ。だれかが効率よく働く方法を見つけないと、ずっと非効率的な仕事ばかり続けて、結果として文明は遅れてしまう」


 ザラメ婆様はそう語ると、玄米茶で口の中を潤した。


「私は手習い場で、この世界は出来上がって三五〇年しか経ってないって聞いた。いまなら四〇〇年かしらね。それだけの間にここまで進歩したのは、間違いなく誰かが学ぼうと頑張ったからだわ」


 ザラメ婆様は、学ぶことの尊さをとくとくと語った。俺は涙が出そうだった。


 俺は村を出るとき、働きに出ることになっていたやつらに、

「学問が何の役にたつもんか。働いてる人が一番偉いんだぞ。ごくつぶしめ」

 と罵られた。そしてそれをずっと忘れられないでいた。


 ザラメ婆様の語る「あるべき学問」を聴いているのは、大変心が慰められることだった。


 そういうちゃんとした考え方の人間がいるのがそもそも嬉しくて、ザラメ婆様は「学問をし見分を広めることと文化を守ることは両立できるはず」とおっしゃる。とても賢い人の考え方だ。


 俺は嬉しかった。嬉しいとしか言えない語彙の乏しさに腹が立つ。


 いろいろな話をしばらくして、中央学府探検部はザラメ婆様の昼食にご相伴することとなった。メニューはシンプルに魚の塩焼きと米をふつうに炊いたご飯だ。


 ザラメ婆様は、結構な健啖家で、ぱくぱくと食事を摂る。


 健康ってこういうことかあ。文化を知って体を健康に保っているんだなあ。


「ザラメ婆様。長生きの秘訣はなんですかいの」と、すでに結構長生きしているはずのサザンカ先輩が訊ねる。ザラメ婆様はほっほっほと上品に笑うと、

「毎日果物を食べることかしら。冬にもスラ・クが採れるから」と答えた。


 スラ・クというのは俺の住んでいたルユトクでは初夏に採れる黄色い木の実だ。ここでは別の木の実を指しているらしい。この村のスラ・クはどんなものですか、と訊ねると、


「青い、小さな粒の果物よ。子供が採りに行くの。スラ・クはこれしかないと思っていたけど、ほかにもあるの?」と訊ねられた。


「俺の故郷ルユトクではスラ・クは黄色い木の実で初夏に取れます」


「へえ。世の中広いわねえ……ああ、私の祖父は果物、という意味でスラ・クと言っていたわね。風で育つからスラだ、って」


 よく覚えてるなあ、昔のこと。感心してしまう。


「こうやってね、言葉って次第に変わっていくものなのよ。だから古い言葉に固執しちゃダメよ。新しい表現だってどんどん生まれてくるのだから」


 ザラメ婆様は俺たちを戒めるようにそう言い、焼き魚をかじった。


 昼食ののち、俺たちはザラメ婆様の家――ザラメ婆様は足が悪くて、広場でほかの人々のようにするのが難しいらしい――を、「コー・イーン・ミ」と、神の加護を願う別れの挨拶をして出た。村の広場ではなにやらぐつぐつと料理がされている。


「グーグー・ク」と小さい子供に服の裾を引っ張られた。見ると大量の鳥の羽が散らかされている。俺たちのためにニワトリを〆たのだ。


 香ばしい香りがするのだが、ついさっき焼き魚と白いメシを食べたばかりである。どうしたものだろう。なにやら香辛料もたくさん使っているようで、贅沢な食事であるのが見て取れる。そんな、昼間っからこんなご馳走を出さなくても……。


 とにかく食べないのは礼儀に反するので座る。出てきたのはニワトリをブツ切りにして煮たてたスープに米をいれた粥のような料理だ。おそらくこの村で食べられる最高のご馳走。


 木でできたお椀に、奥さんたちが次々と粥をよそう。鍋からはニワトリの足が飛び出している。渡されて躊躇しながら様子を見ると、小さい子供たちは食べていないようだ。


 これ記憶にあるぞ。客人が来ているとき、子供は豪勢な食事には客人が分けてくれないかぎり参加できないのだ。俺は少し考えて、料理をすくう匙を子供に渡した。


「グーグー・ク、食っていいぞ」


「アリガト。ユグルトゥ・イーン・キ」


 子供は座り込んではふはふと粥を食べ始めた。拍手が起こる。もともとこれを想定して、ニワトリを〆たのかもしれない。クオーツ先輩もシルベーヌ先輩もそうしている。サザンカ先輩も、名残惜しそうにではあるが、お椀を子供に渡した。


 とにかくものすごい歓迎ぶりだった。


 おそらくザラメ婆様のような、学問に通じたひとがいるから、学問をする人間が「外から」来たら丁寧に扱う、という空気ができているのだろう。自分たちに学問は関係ない、と思っているわけではなさそうだ。しなければならないが、しかし学問をする余裕がない。そんな感じに見える。


 子供たちはお粥を食べ終えると、それぞれの家に帰って昼寝をするようだった。自由だ。


 大人たちは農作業の続きをしている。結構がつがつ頑張らないと暮らしが成り立たないようだ。そりゃあ学問は二の次にされるわけである。


「うぐう……鶏肉のお粥……」サザンカ先輩が悔しげにつぶやく。もう鍋は空になっていて、女たちが用水路で鍋を洗っていた。穴を掘って残ったニワトリの骨を埋める。


「しゃーねーな、この村の初婚年齢でも調べてみっか」と、クオーツ先輩が立ち上がった。適当な奥さん――きれいな布地の服を着て、おんぶ紐で小さな子供を背負っている、わりと若々しい、人間の女の人――に声をかける。


「アロ」クオーツ先輩がそう声をかけると、その奥さんは「コンニチハ」と返してきた。

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