第22話 梨都との時間

 暦は七月に変わり、太陽が顔を出す日が増えてきた。今年は雨が少なくて、八月に水不足になるのではと、僕は年寄りめいた心配を始めた。


 それでも、大学生に成って初めての夏を孤独に過ごす心配が消えて、大学に向かう足取りも軽い。


 隣を歩く梨都もこの時間だけは僕を独占できると、ケヤキ並木から漏れる初夏の陽差しを浴びながら、気持ちよさそうに歩いている。


 昨日は夏フェスのバンドに亜美を加入させたことで、梨都の不満は爆発寸前になったが、信長の支配的な眼差しを向けられると、心地よさそうな表情に変わって事なきを得た。


 普通の人間が千の言葉を並べて弁解するところを、一睨みで治めるなんてチートもいいところだ。


 それにしても梨都は太陽の下がよく似合う。

 伸びやかな肢体と健康的な精神が、陽の光の下で眩しく輝いている。

 ニート的な屈折した日々を過ごした記憶が、梨都と一緒にいるだけで徐々に浄化されて薄れていく。


「ねぇ、怒らないで聞いてね。亜美さんって慎哉にとってどういう存在なの。亜美さんをバンドに誘ったのは、バンドの成功だけが理由なの?」

 梨都はこの状況にそぐわない、心配そうな顔をしている。

 こんな顔をさせるだけで、僕の胸は苦しくなる。


 そもそも亜美を誘ったのは信長であって僕ではない。その信長の真意も、僕にはよく分からないから、この質問に正しく答えることは無理だと思う。

 では、僕にとって亜美と一緒にいる時間が続くことはどうなのか――それは今の僕には答えを出せない質問だった。


 亜美と一緒にいる時間は、いつも心を妖しくかき乱される。疲れる存在ではあるが、無性に会いたくなることは事実だ。

 何よりも亜美は僕にとって、初めてキスした相手だ。

 亜美の唇を見るたびに、そのことを強く意識してしまう。


 一方梨都は、僕にとって初めて恋愛感情を持った憧れの存在だ。梨都との関係を軽く扱いたくないし、泣かせるなんて考えられない。梨都が自分のことを好きでいてくれるなら、それは夢のような毎日だった。


 この年に成るまで、恋愛経験はおろか恋愛感情でさえ、まともに持ったことのない僕にとって、これは永遠に選択できない二択のように感じる。


「怒ったの?」

 返事をしない僕を案じて、梨都が不安で消え入りそうな表情を見せる。

 可愛い!

 その顔を見ただけで、梨都の望む答えを返したくなる。

 でもそれは嘘だ。

 慣れない嘘をつけば、いずれはばれてもっと傷つけることに成る。


「怒ってないよ。正直言って亜美のことは自分でも良く分からないんだ。魅力的だけど、好きだという感情は多分ないと思う。逆に梨都のことははっきり好きだと感じる」

 言い終わると僕は恥ずかしくなって、梨都の顔がまともに見れなくなった。


 自分の気持ちを正直に伝えようと使命感に駆られて、生まれて初めて異性に好きだと告げた。時間が経つにつれてどんどん不安が大きくなる。

 だいたい今までも、梨都から好きだとはっきり言われたわけではない。


「慎哉、こっちを向いて。ありがとう。私も慎哉のこと好きだよ」

 梨都の顔も紅潮している。

 普段から活動的で言葉も明瞭な梨都が、こんな風に成るなんて想像できない。


「私も今まで男の人とちゃんとつき合ったことないから、好きって気持ちはよく分からなかったんだけど、この前のライブで慎哉が離れていきそうで悲しくなった。でも一番悲しく成ったとき、私を見てくれたでしょう。あのとき、これが好きだってことだと分かったの」


 嬉しくて跳び上がりそうになったとき、大学に着いた。

 これから始まる授業は違うので、名残惜しいがそこで別れた。




「問題はリズム隊をどう揃えるかだな」

 彰は難しい顔で僕を見た。

 昨日、彰と夏フェスに向けた打ち合わせを約束したのだが、正直この手の知識について僕は皆無だった。

 これから夏フェス迄、何をしなければならないのかさえ分からない。

 要領を得ない顔で頷く僕を見て、彰は苦笑した。


「お前、ホントにバンドをやるのは初めてなんだな」

「すいません」

「いいよ。形を揃えるまでは俺がするから。だけど、バンドの方向性についてはお前も真剣に向き合ってくれよ。亜美を入れるということは、あのラストソングのときのように、男と女の間の情緒も入れるってことだからな。それを表現できるメンバーは限定されるぞ」

「よく考えずに亜美に声を掛けてしまいました」

「それはいい。お前が言わなかったら、俺が言ったかもしれない。あの演奏を聴いて俺はお前と組もうと思ったわけだし。ところで、亜美とは付き合ってるの?」

「違います」

 今朝の梨都との会話を思い出し、慌てて否定した。

 彰は僕の強い否定に驚いたのか、それ以上二人の関係について何も言わなかったが、これだけ付け加えた。


「感性だけであの表現ができるなら、いろいろと期待できるな。俺も心強いよ。だけど大変かもしれないぞ。亜美は今まで正治さんにべったりで、あの曲なんかずっとそれを引きずってたのに、あのライブでお前と亜美の世界に書き換えたんだ。亜美にしてみれば責任取ってよって感じじゃない」

 彰の言葉で、僕の心がまた大きく揺れ始めたとき、梨都と研人が現れた。

 タイミングがいいのか悪いのか良く分からない。


「あの質問してもいいですか?」

 研人がおずおずと切り出した。

「何?」

 彰が訊くと、研人が嬉しそうに話し始めた。

「新バンドの名前って、もう決まってるんですか?」

「メンバー揃ってからでいいかなって思ってる。バンド名が気に入らないから入らないって奴もいるから」


 バンド名も決めなくてはいけないなんて、まったく前途多難だ。


 途方に暮れる僕の手を、梨都がそっと握ってくれる。

 その姿を見て、彰がニヤニヤとした笑いを隠せずにいる。

 期待している内容がだいたい分かるだけに気が重くなった。

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