第16話 梨都の憂鬱

 梨都は寝不足でイライラしながら、武蔵境の改札で慎哉を待っていた。

「遅いなぁ。昨日は何時まであの人たちと一緒だったのかしら」


 まだ八時だ。授業開始まで一時間もあるのに、梨都は慎也が姿を見せないことにイライラしていた。

 何度もスマホを取り出して、かけようかかけまいか迷う。


 昨夜は、練習から戻ったら電話をして欲しいと、念押ししたにも関わらずかかってこなかった。思い余って梨都から三度も電話したのにつながらなかった。


 打って変わって今朝に成ると、今度は電話するのが躊躇われた。

 慎也からの電話があるはずだとずっと待つ。

 スマホは無言を貫き、もしかしてラインと思いながら、何度もロック画面を解除するが、通知マークはない。

 もしかして通知が出てないだけ?

 そういうことあるよねと思って、ラインを開いても何も通知されてない。


「私って彼女じゃないのかな」

 悲しくなって独り言が出た。


 昨日は亜美への対抗心から、みんなの前で無理やり彼女だと言わせた。

 しかし、慎哉の口から「好きだ」とか「つきあおう」とか、聞いたことがない。

 慎哉の性格が奥手なのはよく分かっているが、こんなに一緒にいて何も言ってくれないのは、本当はその気がないのかと疑いたくなる。


「こんなことって初めてだな」

 また独り言だ。

 一人で待ってると、どんどん愚痴が浮かんでくる。

 どんなに切なくても、梨都の方から「好きだ」と言うことはプライドが許さない。


「そう言えば、慎哉の部屋には行ったことがないなぁ」

 向こうは独り暮らしなんだから、誘ってきてもおかしくない。

 二人きりで部屋にいたら、私のことを求めてくるのかしら。


「キャッ」

 そこまで考えて、梨都は自分の考えに自分で恥ずかしくなった。

 こんなに思う、自分が信じられない。




 昨夜の記憶を思い出しては、恥ずかしくなる。

 キスしたのは信長だが、亜美の認識は突然大胆になった僕。

 二回目のキスは恥ずかしくて、見てられなかった。

 いったい何分間キスしてたんだろう。

 それに自分を満足させろなんて台詞、自分だったら絶対に言えない。



 電車を降りて改札に向かうと、そこには梨都がいた。

 おはようと言った梨都の顔は、いつもの笑顔じゃなくて引きつっている。

 それなのに、梨都の唇に目が行った。

 柔らかそうで、光ってるよう見えた。頭の中で梨都とのキスを想像した。

 自己嫌悪!

 もう中学生と変わらない。


「昨日の夜、電話したけど出なかったよね」

 ケヤキ並木を二人で歩き始めた途端、厳しい尋問が始まった。

 練習の見学ができないからと、終わったら電話する約束だった。

 吉永たちの深刻な話と、思ってもみなかった亜美の変容で、すっかり忘れて、いや億劫になってた。


 不信に思った梨都は、三回も電話したらしい。

 電話があったことに気づいていたが、練習の最中だったり、亜美に迫られているときだったので、出ることができなかった。


「ねぇ、どうして出なかったの?」

 僕は正直に話せなくて困ってしまった。

「もしかして、亜美さんといい感じになってたりしたの?」

 梨都は美人だけに、怒って柳眉が逆立つとすごく怖い顔になる。


「ごめんなさい。練習中で出れなかったのと、初めてだったんですごく疲れて、帰ったらすぐ寝ちゃったんだ」


 僕が人見知りが激しいのは梨都もよく知っている。

 疲れてしまったはそれなりに説得力があったようだ。

 梨都は不満そうに口を尖らしたが、一応納得してくれた。


 梨都にいいわけしている間に大学についた。

 僕はホッとした。

 これから始まる講義は幸いにも、僕が文化人類学概論、梨都が西洋史概論と教室が分かれる。

 一人に成れる時間が貴重に思えた。


 教室について席に着くと、やっと落ち着いて昨夜を振り返ることができた。

 思い出すのは何と言っても亜美だった。

 あんなに怖い女だったとは……

 きっと、お兄さんの死で精神が病んじゃったんだ。


(それは考えすぎだ)

 信長の声だ。

(だって、あんなに手当たり次第に男の人と……)

 特に最後の島田との関係を聞かされたときは、知ってる人だけに生々しくて嫌だった。


(それはお主が勝手に女に抱いた幻想を、押し付けてるだけだ。男だって現実的にやりきれないとき、手当たり次第に女を求める)

(でも……)

(第一、あの女は男に溺れていない。ただ生きていくのに希望が欲しいだけだ。そして今はお主に希望を見出している)

(僕じゃなくて信長だろう)

(それは違う。余に期待するのは兄の身代わり。あの女……亜美は本能的にぬしなら、兄のトラウマから救ってもらえると感じておる)


 とてもそうは思えないが、信長と僕では女性経験が違いすぎる。

 これ以上追い詰められるのも辛いので、この話題は打ち切った。


(あー今日の練習、苦痛だな)

(ならば行かねば良い。だが吉永たちの思いから逃げたら、ぬしの心に消えない傷が残るぞ)

 また返事ができなくなった。

 今日の信長は敏腕検事のようだ。


 僕は既に始まっている授業に集中しようとしたが、すぐに信長の言葉が気に成った。

 亜美が僕に救いを求めてると、なぜ信長は思ったんだろう。

 聞いてみたい思いがどんどん強くなるが、それと同じくらい怖い思いが大きくなる。


 亜美のことを考えるのをやめようと、今朝の梨都の顔を思い浮かべた。

 僕は梨都が好き、僕は梨都が好き、僕は梨都が好き。

 三回心の中でつぶやいたら、今朝見た梨都の唇を思い出した。

 艶々と光って、あの唇にキスしたらどんなに気持ちがいいんだろう。


 あー駄目だ。

 授業がまったく頭に入らない。

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