第15話 亜美の持つ闇
三人を置いて僕と亜美は居酒屋の外に出た。
昼間はあんなに人が多かった吉祥寺の通りも、夜十二時近くなるとすっかり人波も消えて、夜遊びしている若者がちらほらといるだけだった。
亜美の家まで南口から北口に出て、商店街の中を抜けて行くとして、歩いて十分ぐらいか。往復でニ十分。中野行きの終電には、余裕で間に合いそうだ。
「たいへんだったね。最後はおじさんたちの決意表明に付き合わされちゃって。でもあの人たちもいつかは決めなきゃいけないことだから。遅すぎるぐらいだよ」
意外なことに亜美は吉永たちに厳しかった。
「でも夢を諦めるのはたいへんなことなんだと思う」
僕が同情半分で三人の肩を持つと、亜美は半笑いを浮かべた。
「お兄ちゃんはね、凄いギタリストだったの。天才だったかもしれない。でもお兄ちゃんの個性にバンドのメンバーが飲まれちゃうんで、学生の頃から誰と組んでも成功しなかった」
「そんなに凄かったんだ」
僕が心から感心すると、意外そうに亜美は僕を見た。
「慎哉君だってそうじゃない。初めてギター弾いたって嘘でしょう。あなたのギターテクニックはお兄ちゃんの全盛期と比べても遜色なかった」
「嘘じゃないよ」
証明する手段がなくて、僕が困っていると、亜美が笑った。
「まあいいわ。そんなことはどうでもいい」
二人の間に沈黙が流れる。
再び亜美が話し始めたのは、駅を抜けて北口に出たところだった。
「お兄ちゃんは大学を卒業した後も、ギターがどうしても捨てられなくて、島田さんの店でバイトしながらメンバーを探した。そこで吉永さんたちと知り合ったの。すぐに意気投合してバンドを組んだわ。私も今度こそうまくいくんじゃないかと思って期待した」
亜美は話しながら、空を見た。
星なんか見えない。
代わりに涙が亜美の頬を伝わった。
「いくら練習しても上手くいかなくて、お兄ちゃんの失望が伝わってくるの。私はだんだん腹が立ってきて、気がつくと夢中で歌っていた。するとバンドの音がうまく纏まったの。初めてお兄ちゃんの音がリズム隊の刻むビートの中を、生き生きと流れたわ」
亜美は泣きながら語り続けた。
すれ違うカップルが二人を好奇心に満ちた目で視る。
僕は自分が別れ話でも切り出して、泣かせてるように見えるのじゃないかと気に成った。
「良かったじゃないですか。お兄さんの願いが叶ったんですね」
僕は良かったを強調しながら、なんとか亜美を励まそうとする。
「ライブハウスを沸かせているうちに、メジャースカウトの声がかかったわ。でもお兄ちゃんと私だけだった。私はもちろん二人だけでも前に進むべきだと、お兄ちゃんを説得した。でもお兄ちゃんは、他のメンバーを捨てきれなかったの。悩んで夜道をスクーターで走っていて、中央分離帯に突っ込んで死んじゃった。半分は私が殺したようなものね」
「そんな」
僕はあまりの悲劇に驚いた。
これがさっき、信長が予言した人間の本質を見るということなのかと思った。
「私はお兄ちゃんが好きだった。兄としてじゃなく男として」
更に衝撃が僕を襲った。
「でも兄弟だからしかたないと思ってた。お兄ちゃんが死んでから、忘れようと思って、大学の同級生と寝た。初めてだったけど何の感動もなかった。それから何人かと寝たけど、誰もお兄ちゃんの代わりにならないと分かった」
物凄く悲しい話なのに、隣を歩くこの美しい女性が男と寝るシーンを想像して、下半身が反応する。自分が動物すぎて嫌になった。
「それで考えたの。お兄ちゃんのギターをあの店において、お兄ちゃんのように弾ける人に渡して、私はその人と人生を歩こうと。もちろんお兄ちゃんと同じ道を歩いてもらう。それであの店でバイトをしながら、あのギターを手にする人を待ってたの」
「島田さんは、その考えに反対しなかったのですか?」
亜美はフフと笑った。
「私がお願いしたら、島田さんは二つ返事でOKしたわ。だってあの人もお兄ちゃんが死んでから、私と寝た一人だもの。でも一回だけ。バイトを始めた当初は誘ってきたけど、吉永さんたちの名前を出したらすぐにやめたわ。怖かったのね」
何という業の深さだ――僕は亜美の持つ闇の深さに、先ほどまで盛り上がった欲望が不思議なほどスーっと覚めるのを感じた。
「って、待って、今僕の手にギターがあるってことは」
「そう、慎哉君には夏フェスが終わっても、ギターをやめないで欲しいの。あなたは絶対にプロとして成功する。私たちに声をかけてくれたプロダクションの人に、私から兄の再来として紹介してもいい」
「そんな無茶な」
「その代わりに私をあなたにあげる。今のあなたはそうでもないけど、ギターを弾いてるときはすごくセクシーだった。私、あなたを見ていて躰が熱くなったもの」
亜美の顔が近づいてきた。
細い腰と、身体に似合わない豊満なバストが、僕の身体に当たった。
(だめ、やめて)
僕が心の中で叫ぶと、信長とスィッチした。
信長はいきなり亜美の顎を持って、キスをした。
僕では絶対できない濃厚なキスだった。
亜美は僕のことを純真な男と侮っていたので、驚いて身体を引いた。
「どうした? そなたをくれるのではないのか?」
さっきまで戸惑いしか浮かんでなかった僕の目が、妖しく光る。
その光に魅了されて、再び亜美が信長に身体を預けた。
「そなたの望みを叶えてもいいぞ」
「えっ」
信長のペースに嵌って、自分の野心を忘れていた亜美が、信長の言葉に驚いて声をあげた。
「ただし、そなたがライブの中で、余を満足させるだけの歌を歌えたならばだ」
信長の交換条件に生霊になった僕は慌てたが、訂正をもとめるよりも亜美の答えの方が早かった。
「絶対、あなたを満足させてみせる」
亜美は信長の首に回した手に力を込めた。
僕は上空から二人の様子を見ながら、タクシーで帰らなければならなくなったことに、悲しみを感じていた。
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