第10話 動き始めた信長


 三限目は数理統計の講義だ。この科目を取っているのは僕だけなので、一人で教室に向かう。

(慎哉、夏フェスに出てみないか?)

 教室に着くなり信長は、僕に夏フェス参加を切り出してきた。

(何言ってるんだよ。第一僕たちはバンドに入ってない)

(バンドなど作ればいいじゃないか)

(デモテープの締め切りは二週間後だよ。絶対無理だ。第一、信長さんは何か楽器ができるの?)

(歌えばいいではないか)

(僕の声で? 絶対無理だよ)


 僕の声は音域が狭く、高音の伸びがない。カラオケで歌える曲も僅かしかない。

 ボイストレーニングでファルセットを鍛えるにも、二週間では無理だ。

(ならば、楽器を弾けば良いではないか)

(僕は学校で縦笛ぐらいしかやったことないよ)

(お主の過去にギターを弾いた経験があったぞ)

(それは中学時代に学習雑誌を年間予約したときに、特典としてもらったギターだ。巧く引けなくてすぐ辞めたよ)

 あまり触れられたくない挫折の経験だ。


(それなら、大丈夫だ。演奏技巧は運動神経に依存する。あとは感性だが、お主と余は真逆の感性を持っている。きっと観客の心を揺さぶるぞ)

(僕もやるの?)

(当然だ。余とぬしは表裏一体だ。二人でやれば成功間違いなしじゃ)

(そんな人前で演奏するなんて無理だよ)

(やる前からつべこべ言うな。この授業が終わったら楽器屋に行くぞ)

 渋る僕を強引に押し切った。


 信長の話では、古来から華やかな音曲の世界の裏では、縄張りやしきたりなど、面倒くさい人間関係が渦巻いていたらしい。

 同じ人間の世界だ。

 それは現代においても根強く残っていておかしくない。

 信長は朝から不機嫌だったのを忘れたかのように、これから繰り広げられるであろう人間ドラマを思い描き、一人ほくそ笑んでいた。

 このとき、まだ僕は信長が満足して、憑依が解けることだけを考えて、これがどのようなトラブルに発展するか、まったく気づいてなかった。




「これから楽器屋に行くので、これで失礼する」

 四限目のドイツ語の授業に一緒に出ようと、集まった梨都たちに僕はサボりを告げた。

「えっ、どうしたの? ドイツ語終わったら、一緒にご飯食べようって言ったじゃない」

 自分との予定をキャンセルしようとする僕に、梨都は口を尖らして抗議する。


 梨都に僕が逆らえないことを知っている信長は、すかさずスィッチした。

「エントリー迄時間がないゆえ、急いでおる」

「エントリーって何にエントリーするの?」

「夏フェスに決まっておろう」

 言葉使いが微妙に変わり、周囲に覇王の雰囲気が漂うと、梨都は僕があの夜の慎哉に変わったことに気づいて、抗議をやめた。


 代わって、隆道が心配そうにつぶやく。

「夏フェスって、エントリーの締め切りまで、後二週間しかないぞ」

「二週間もだ。人間やる気に成れば時間は問題ではない。強い決意のない者は一年かけても結局成しえずに終わるものだ」

「分かった。じゃあエントリーシートをもらってきてやる」

 信長の強い意志が僕の目に浮かんでいるのを見て、隆道は協力を申し出た。


「夏フェスにチャレンジするんだ」

 いつもは口数が少なく、隆道のパシリ的な扱いを受けている研人が、目を輝かせて確認した。

「ああ、一から始めることになるが、必ず出演する」

 研人は珍しく慎哉と目を合わせて、黙ってじっと考えていた。


「時間がないからもう行くぞ」

「待って、僕も手伝うよ。吉祥寺に知り合いの楽器屋があるから紹介する」

 研人が校門に向かって歩き出した信長の後を追う。

「待って、私も行く」

 梨都も慌てて後を追った。



 信長は、武蔵境の楽器屋で、適当に調達しようと考えていたようだが、研人が熱心に進めるので吉祥寺まで足を延ばした。

 研人の案内で三人は吉祥寺通りを北に向かって歩き出す。

 目的の楽器屋は五日市街道の一つ前の角を曲がったところにあった。

 店のサインボードには『ギターショップBeck』と記されていた。


 信長は店頭で足を止めて、店の中に入ろうとする研人に声をかけた。

「よく来るのか?」

 研人は振り返って答えた。

「高一のときに夏フェスを見て、ギターを始めたんだ。同級生に教わってここでギターを買ってから、毎週日曜日に成ると来ていた。店長が親切でいろいろ教えてくれたんだけど、才能がなかったみたいで、今は聞く方が専門だけど」

「そうか、諦めたのか。では行こうか」

 信長は研人の挫折にはさして関心を示さず、研人に店内に入るように促した。


 店の中には三十才ぐらいの男の客が一人と、店員らしい中年の男と若い女がいた。男の店員は客と話していて、女の店員はギターをクロスで磨いている。

 入店してきた研人に、男の店員が気づいた。

「いらっしゃい。宝生君、久しぶりじゃないか」

 大学に入ってから足が遠のいていたのか、男の店員は研人を歓迎してくれた。


「こんにちは、島田さん。すいません。しばらくご無沙汰してました」

「いいよ、忙しかったんだろう。ギターは持ってきてないみたいだけど、弦でも買いに来たのかな?」

「違います。紹介します。僕の友人の佐伯慎哉君です。彼が夏フェスのオーデションに参加するので、ギターを買いに来たんです」

「明峰大の夏フェスに。それは凄い。今はどんなギターを使ってるの?」

 研人が島田と呼んだ店員は、夏フェスと聞いて興味を感じたようだ。

 話していた客に断って、近づいてきた。


「ギターは持ってない。だから買いに来た」

「持ってないって、弾いたことはあるんだろう?」

「一度もない」

「ないって……」

 島田が絶句した。


「ガッハッハ」

 先に来ていた客が、大声で笑い始めた。

「お兄ちゃん、面白いなぁ。夏フェス出るなんて言わないで、素直にギター始めたいと言えばいいじゃん」

「いや、余の目的は夏フェスに出ることで、ギターはその手段にしか過ぎない」

 信長の言い方に、客が切れた。

「おいおい、ギターなめるなよ。初めての奴が人様の前で、弾けるようなものじゃないんだよ」


 島田が慌てて間に入る。

「まあ、吉永さんも落ち着いて、プロのギター演奏見て、自分も弾けるような気に成ることはよくあるって。君も、一度実際のギターを弾いてみればいい。亜美ちゃん、スクワイヤ―のストラスキャスターモデル持って来て」

 亜美と呼ばれた女の店員は、ネック側のボディの形状が尖っていて、ピックガードの大きなギターを持って来た。


「これはフェンダーって有名なギターメーカーの傘下ブランドで、スクワイヤーってメーカーが出してるギターだけど、フェンダーに似たサウンドとフィーリングなのに、初心者でも弾きやすい設計に成っているからおすすめだよ」


「少し弾いて見せてもらってもいいか?」

「えっ、自分で弾くんじゃなくて?」

「弾いて見てくれ。できるだけ難しいテクニックを駆使して」

「分かった。じゃあ試し弾き用の部屋に行こう」


 Beckは小さな店だが、ちゃんと弾いてみたい客のために、防音完備のスタジオがあるようだ。

「店長、ちょっと待って、俺が弾いてやるよ」

 吉永がギターを奪うように手に取り、先頭に立ってスタジオに向かった

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