第8話 ケヤキ並木
武蔵境に着いて時計を見ると、まだ九時半にもなってなかった。
授業開始まで一時間以上時間がある。
二限目は前澤准教授の心理学だ。
選択科目なので、クラス全員が受講するわけではないが、前澤准教授はテレビなどにもときどき出演する有名人なので、女子人気が高い。
確か梨都も受講しているはずだ。
もし教室で会ったら、どんな風に接すればいいか分からなくて、少し不安になった。
ホームから階段を下りて改札を出ると、そこにはなんと梨都の姿があった。
不意打ちに心臓が飛び出しそうになる。
しかもなぜか梨都は改札方向を向いていて、僕の姿にすぐに気づいた。
「おはよう。今日は早いね」
昨日のことがあったからか、いつも堂々とした梨都が、気のせいかはにかんでいるように見える。
「おはよう。朱音さんと待ち合わせ?」
「いやだ、小学生じゃあるまいし、集団登校なんてしないよ」
「いや、改札の方見て、誰か探してるようだったから……」
「慎哉君を探してたんだよ」
「……」
梨都の答えは意外過ぎて、反応できなかった。
「昨日、あれっきり話ができなくなるような気がして、不安になって来ちゃった」
「来ちゃったって、まだ九時半だよ」
「連絡して待つのは違うようなきがして、ただいつもどのくらいに来るのかも分からないから、八時半に来てここで待ってたんだよ」
「……」
再び言葉が出ない。
ハ時半から待ってたこともそうだが、武蔵境には改札が二つある。
反対側に出ることはまずないが、それでも絶対にこっちの改札に来るとは限らない。
何が梨都をこんな不確定な行動に走らすのか、さっぱり見当がつかない。
「一緒に学校に行こう?」
慎哉の返事を待たずに梨都はどんどん歩き出す。
慌ててその後を追いかけた。
荻窪を出るとき振っていた雨は、もうほとんど止んでいた。梅雨だからまたいつ振り出すか分からないが、空は明るくなって、雲の切れ間から太陽が顔を出しそうだ。
「ねぇ、せっかくだから一緒に歩きたいな。ダメ?」
利発的な表情で提案して、最後のダメだけ甘えた表情が見える。
梨都にこんな顔をされて断れる男がいるとは、僕には思えなかった。
「いいよ」
昨日のことを考えたら雨があがったし、自転車があるからと断ることもできたはずだが、僕は梨都と一緒に歩きたいと思ってしまった。
「昨日、最後に言った言葉、覚えてる?」
何だっけ――信長が言った言葉だ。必死で記憶を辿ってみても思い出せない。ちょうど別れ際は、別のことに囚われていて、すっかり注意力が消えていた。
背後から二人を見ている信長は、何も言ってくれない。
僕が困っていると、梨都が待ちきれないように自分で答えを言った。
「うちの別荘の話だよ。来てくれるんでしょう」
薄っすらとだが思い出した。そう言えば最後に信長が、楽しみにしてるって言ったような記憶がある。
梨都は不安そうな表情でこっちを見ている。
僕はそんな梨都の表情を始めてみる。
「行くよ。楽しみにしている」
「嬉しい。もし今日になって、やっぱり行かないって言われたら、どうしようかと思って、ドキドキしながら待ってたんだ」
どうやら、これが訊きたくて、僕を待っていたらしい。
すっかり明るくなった梨都の顔を見て、隆道たちと一緒にいるのは気が重いけど、行くと言って良かったと思った。
「あのね、もし良かったら今年は招待するの慎哉君だけにしたいの。それでも来てくれる?」
一つハードルを越えたと思ったら、予期しない二つ目のハードルが現れた。
彼女いない歴十八年の僕には、なんて答えればいいのか分からなくて、また言葉に詰まってしまった。
梨都がどんな事情でそうしようとするのかさっぱり分からないし、かといって一人だけ行くと、梨都のグループのメンバーに変な勘違いをされるかもしれない。
それに梨都の両親にどう思われるかも不安だ。
「私の父と話したいと言ってたでしょう。一人の方がじっくりと話せる気がするんだ。それに私も二人でいる時間が欲しいし」
思い出した。理由は分からないが、確かに信長は梨都の父と話したいと言っていた。
しかし、梨都の最後の言葉は何を意味するんだ。
僕は期待と不安に交互に駆られて、かなり心が揺さぶれた。あの痴態を見て僕を好きになるとは思えないような気がするし、もしそれでも好きなら僕ではなく信長であることは間違いない。
おまけに身体にも変化が現れてきた。
こんな雰囲気で女の子と二人で歩くのは、生まれて初めてだ。
梨都の息遣いや時折風に乗って運ばれる香水の匂いに、下半身が硬くなってきている。
もし気づかれたらどうしようと思うと、そっちが気に成って思考が停止する。
こんなときに昨日みたいに、信長がスィッチしてくれれば助かるのに、声すらしない。
おそらく昨日から、僕の身体への滞在時間が、八時間を超えてスィッチできないのだろう。
「いいよね」
また不安そうな表情で確かめてくる。
もはや抵抗などできるわけがない。
僕は恥ずかしそうに小さくうなづいた。
「良かった!」
再び梨都の顔が明るく輝く。
その顔を見て僕は再び歩きにくくなった。
気を紛らわそうと周囲に視線を走らすと、ようやく差し掛けた日の光が、雨に濡れた街路樹のケヤキの葉に当たって、キラキラと美しく輝いている。
武蔵境は都会的な建物が立ち並ぶ中に、緑が豊富に配置された緑視率の高い美しい街だ。僕は初めて大学に続くケヤキ並木を歩いたとき、いつかは彼女と二人で自然に歩く姿を想像してときめいたものだ。
隣を歩く梨都は彼女ではないが、入学したての頃の夢が実現したような気がして、胸がいっぱいになった。
「気持ちいいねこの道。ほら周りがキラキラ光ってる」
僕の言葉に促されて、梨都も梅雨の合間の自然の贈り物を目にした。
「ホントだ。きれい」
自然の安らぎが不安定だった梨都の心にしみ込んで、柔らかな表情に変わった。
僕も、今何か話さなくてはとか、これからどんな風に接しようとか、焦る気持ちが消えてなくなった。
言葉が必要なくなった二人は、しばらく無言で歩いた。
大学の門を潜ったところで、梨都が不思議そうな顔をする。
「今日の慎哉君は昨日と違う人みたい。昨日は引き込まれるそうな悪魔的な感じで、心が不安定になって息苦しくなったけど、今日は穏やかで優しい感じで、初めてあったときのように素直に自分が出せるよ。どっちも素敵だけど、私といるときは今の慎哉君でいて」
それって信長の慎哉よりも僕の方がいいってこと?
何もかもかなわないと思った信長に、勘違いかもしれないけど勝った気がした嬉しさで、僕の心は踊り出しそうになった。
「ありがとう。できるだけ今の自分でいるようにするよ」
相変わらず気の利いた言葉は出てこないが、心をこめてやっと口にした言葉は、梨都の満足する言葉だったようだ。
梨都はこの先一生心に残るような飛び切りの笑顔を返してくれた。
この一瞬だけ僕は、背後の信長の怨霊を忘れていた。
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