第4話 忌まわしい過去


 五人で学食に向かう。

 明峰大の学食は学生食堂とは思えないぐらい綺麗で美味かった。残念ながら僕は、隆道と会うのが嫌で、四月に二度使ったのみで、ほとんどここで食べたことはない。


 食堂に向かって歩いていると、信長が話しかけていた。

(なんだ、そちにも友がいるではないか)

(友達じゃない。天敵だ)

(天敵? あの禿鼠に似た小男はそちの敵なのか?)

 禿鼠――言われてみれば隆道は、少し額が広く前歯が大きい。


(ふっ、秀吉を思い出すわ)

 再び他の者には聞こえない信長の声がした。

(お主がどのように責められるのか、この信長がじっくり見分してやろう)

 僕は味方かどうかは分からないが、少なくとも隆道の仲間ではない第三者の存在に少し気が楽になった。


 まだ昼食には早いので、それぞれ思い思いのドリンクを手に、大きな一枚ガラスがはめ込まれた窓際の席に着く。

(ほう、見事だ)

 信長が窓の外を見入っている。

 僕もつられて見ると、学食に面した花壇にはアジサイの花が一斉に咲き誇っていた。梅雨の季節だが今日は晴れて、陽の光が紫の花を一層鮮やかに演出している。

 僕の心も少しだけ晴れ晴れとした。


「何を見ているの?」

 窓を背にした梨都が小首を傾げて訊いてくる。

「窓の外のアジサイが……」

 緊張して言葉が途切れたが、梨都は反射的に振り向いた。

「綺麗!」

 梨都が叫ぶと隣の朱音も振り向き、二人でしばらくアジサイを見ていた。


「ホントに久しぶりだな。元気でやってたか?」

 隆道は自分が元凶のくせに図々しい奴だ。

 僕はまじめに答える気がしなかったが、梨都が興味深そうにこっちを見たので、しぶしぶ答え始めた。

「もちろん元気にやってたよ」

「そう、なら良かった」

 隆道が何か言うより早く、捉えようによっては意味深な言葉を梨都は発した。


「ホントだよ。新歓であんなことがあったから心配してたんだぜ」

「タカミチ!」

 僕の傷口を抉る一言を発した隆道を、朱音が怖い顔で注意する。

 隆道はにやけた表情で、「悪い」と心にもない謝罪をする。

 やっぱり来なければ良かったと、僕は軽く後悔した。


 そのとき、僕の傷口をさらに抉る声が聞こえた。

(お主が不快になっているのは、初めて酒を飲んで失禁したからか)

 僕の経験を共有する信長が、容赦なく忘れたい記憶を言い立てる。

(そうだよ)

 梨都を目の前にして、またあのときの悪夢が蘇る。

 今日は午後の授業を休んで、早く家に逃げ帰りたくなった。


(そう気にするな。余も悪ガキだったから、子供の頃酒を飲み過ぎて糞迄漏らしたことがある。しかし人は誰でもすることだ。そちの前にいる女子おなごたちも、そちに負けないものをひり出しておる。心配するな)

 そんなこと言われても何の解決にもならない。

 生来の潔癖症の僕には、尿や糞の話は神経を逆なでるだけだ。

 目の前の梨都が汚されたような気がした。


 汚い話を振り切るために、僕は甘い夢を思い出そうとした。

 入学後のオリエンテーションでも、梨都は隣の席に座ってくれた。

 憧れの東京で出会った、ショートカットでモデルのような女の子、強い意志を表わす瞳の光をみたとき、慎哉の恋は後戻りできなくなった。


 授業選択で悩んでいた梨都に、同じ高校の先輩から入手した、単位の取りやすい授業の情報を教えてあげると、いっぺんに距離が縮んだ。

 彼女になってくれるんじゃないかと、甘い夢を見たときもあった。


 梨都は一般入試ではない。

 明峰大付属中学から受験することなしにエスカレーター式に入学したのだ。

 当然法学部にも、中学高校と六年間共に過ごした友人がいた。

 その一人が目の前の隆道だ。

 隆道は何かにつけ、僕と梨都の間に割り込んできた。

 そうなると彼女いない歴十八年の僕は、どうしても及び腰になってしまう。

 そんな小心者の僕に、梨都の方から積極的に話しかけてくれた。

 そんな様子に希望を抱いて告白しようと臨んだのが、新歓コンパだった。


 新歓コンパと言っても僕たちは未成年なので、法律を学ぶ者としては当然酒は飲まない……つもりだった。


 初めて出るコンパに気が急く僕は、開始五分前には会場についていた。

 幹事の先輩たちは、僕のことにすぐ気づいて、新入生の席に案内してくれた。

 少し早かったみたいで、新入生はまだ三人しか来てなかった。

 三人は固まって座って、楽しそうに話していた。

 人見知りの激しい僕は、その中に入る勇気がなくて、三人と離れて座った。


 独りで待っている時間は苦しかった。

 梨都が来ても近くに座ってくれる保証はない。

 僕が後なら、図々しく近くに行けたかどうかは自信はないが、それでももし梨都が気づいて手でも振ってくれたら傍に行くぐらいの勇気はあった。


 そんなことをぐずぐず考えていたら、梨都たちが現れた。

 梨都はすぐに僕に気づいてくれて、笑顔で僕の隣に来てくれた。

 もちろん梨都と一緒に来た隆道達も、彼女の後を追いかけるように僕の近くに来たが、彼女が隣に来てくれた幸運に、僕の心は天迄登る勢いで、生まれてから記憶にないほど、積極的に口を開いた。


 出身地、趣味、高校生活、他愛のない話を飽きもせずに話し続けた。

 もちろん二人だけで話せるわけではない。他の三人が会話に加わると、僕には疎外感を感じる四人の高校時代の思い出話に花が咲く。

 それでも梨都は、「慎哉はどうだった」と、必ず僕を会話に加えてくれる。大事にしてくれる気がして、疎外感などどこかに吹き飛んでしまった。



 時間が進むにつれて、梨都たち付属校からの進学組は、先輩たちの真似して飲酒を始めた。

 最初は僕も勧められたが、法律に違反することが後ろめたくて断った。

 しかし、皆が酒を飲み始めると、再び取り残されたような疎外感が襲って来た。


「慎哉も飲んでみろよ。もう大学生なんだから大人に成ろうぜ」

 隆道は最初からしつこく誘って来た。

 梨都と話しているときも、わざと割り込んで来るような悪意を感じる。


 逡巡する僕の耳元で隆道が囁く。

「一人だけ飲まないと、距離を感じるなぁ。一口飲んで俺たちの仲間に成れよ」

 別に隆道の仲間に成りたいわけではなかったが、梨都も飲んでるのを見て、寂しく思う気持ちはあった。

「分かったよ。じゃあ一口だけ」


「みんなついに隆道君も飲みます」

 隆道が他の三人にアナウンスしながら、何とも手際よく僕に飲ませようと用意していたレモンサワーを差し出す。

 朱音と話していた梨都が驚いて僕に注目する。

 皆の視線を意識して、一口だけじゃ申し訳ない気がしてくる。

 思い切ってジョッキをとりあげ、ゴクゴクと喉に流し込む。

 飲んでみると思ったよりは飲みやすかった。

 何となく梨都と同じ土俵に立てた気がして嬉しかった。


 酒を甘く見た僕は、隆道に勧められるまま、二杯目も頼んでしまった。

 初めての酒は気がついたときは一挙に回る。

 海の底にいるような不快感と、思うように動かない身体。

 尿意を感じて席を立とうとするが、隆道が執拗に話しかけて来るので、もともと気の弱い僕はトイレに行くと言えないでいる。


 隆道が再び囁く。

「梨都の側で話したい奴、その辺にうろうろしてるぜ。一度席を立ったら、もう戻って来れなくなるぞ」

 そうなっては来た目的が無くなる。

 僕は必死で尿意に耐えた。

 そのうちに隆道の右手が、はずみで思い切り下腹に入った。

 ついに耐え切れずに、僕はその場で漏らしてしまった。

 ズボンから染み出た尿が畳の上を流れてゆく。


「キタネー、こいつ漏らしやがった」

 隆道の声がひと際大きく座敷に響いた。

「えっー」

 隣に座っていた梨都が驚いて立ち上がった。

 その場にいた全員が慎哉に注目した。

 漂うアンモニアの匂い。

「なんかとびきり匂うな―」

 隆道が容赦なく僕を責め立てる。


 コンパの主催者の上級生が店の人に雑巾を借りて掃除を始める。

 その日僕は酔って自由の利かない身体に鞭うって、びしょびしょのズボンのまま、一人で電車に乗って帰宅した。

 僕のニート暮らしはその日から始まった。


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