第3話 葛藤


 電車が武蔵境駅に着いた。

 扉が開くやいなや、僕はダッシュして改札を潜り抜け、駅構内から飛び出ていく。

 目指すは、駅北ロータリに面したビルの地下駐輪場だ。


 僕はそこを年間契約し、通学用の自転車を置いている。

 徒歩でも十五分程度の距離なのだが、同級生と交流したくないから、教室にはギリギリで飛び込んで、終わったら素早く姿を消す。

 そのために自転車は、僕にとって欠かすことのできない重要なアイテムとなる。


 もちろん駅から大学までバス路線が走っていて、運行本数も都会だから豊富で、五、六分も待てば乗り込める。

 だから、バスを使って通学する者も多いが、僕の場合は同じ大学の学生と、授業以外で極力会いたくないから、もちろん却下だ。


 駐輪場から自転車を出し、走り始めれば警戒が解ける。そこでようやく自分の身に降りかかった災難(?)について考えてみた。

 ゲームキャラクターの怨霊に憑りつかれたなど、心と身体が健康な若者なら、逆にメンタルが狂いそうだが、僕はもともと不健康なのでどうにか耐えている。


 家を出てからずっとやや後方の上空を、信長の怨霊がついて来ているのだが、不思議なことに慣れたのか、それとも昼間だからか、ほとんど気に成らなくなった。

 信長は通学のしたくをする時間ギリギリまで、ずっと僕の身体を使ってパソコンを検索してた。

 身体を返してくれた後は、疲れたのか元々無口なのか、ずっと黙っている。


 大学の駐輪場に自転車を停めて、左腕の時計で時刻を確認すると、授業開始まで後三分程時間がある。

 一限目の英語の教室は、駐輪場から徒歩二分ぐらいだ。

 僕はこの三分の過ごし方を頭の中でシュミレートした。


 駐輪場の出口で三十秒時間を潰し、二分かけて教室まで歩く。

 授業が始まる三十秒前に、目だたぬように教室に滑りこむ。

 教室に入ったら、会いたくない人たちが座らない前方の席を確保して、周囲を見ないように下を向く。

 英語の講師が入って来るまで、誰にも話しかけられずに済めば、僕の勝ちだ。


 ここまで警戒しなくとも、あいつが前の席に来るとは思えないが、念には念を入れないと、九十分の授業が地獄の時間と化す。

 英語の単位は必修な上、この講師は単位が取りやすいことで有名だから、法学部の同級生はほぼ全てこの授業を受講している。

 出席も取るからサボることはまずないので、ここをどう切り抜けるかが今日一日を平穏に過ごすための最重要ポイントとなる。


 静かにドアを開けて、素早く空いてる席を探す。前側の席はみな敬遠するので、後ろよりは空席率が高い。

 前から二番目、右側から三列目に空席を見つけた。

 目立たぬように静かに移動して着席する。

 着席して十五秒ほどで講師が来た。

 今日も誰とも話さずに済んだ。思わず安堵の溜息をつく。



 それは、授業が始まって五分ぐらいで起きた。

 この授業では教科書とは別に、リーディングの課題として、講師が選んだ難解な英文が配られる。

 今日の課題はベルリンの壁が崩壊したとき、ワシントンポストが掲載した特集記事だった。

 政治的な専門用語がずらりと並んでいる。きっと日本語で書かれていても、正確な内容を把握することは難しそうだ。

 ところが、この普段なら三行ぐらいでギブアップする文章が、まるで中学生の英語の教科書のようにすらすら読めた。


「おかしい、本当に読めてる」

 僕は自分が信じられず、思わずつぶやいた。

「何がおかしい。一、二行読めたからと、大学生のくせによろこぶんじゃない」

 これをすらすら読めるはずがないと、高を括った講師が笑いながら注意する。

 そんなんじゃない。ホントにスラスラ読めるんだ!

 まあ、僕自身が信じられないのだから、講師の見立ては間違ってない。

 事実、他の者もかなり苦戦している。

 頭を抱え込んでしまった者もいた。


(何を驚いている。その記事なら今朝わしが読んだばかりだ。読めて当たり前だ)

 さっきまで静かだった信長が突然話しかけてきた。

(そんな馬鹿な。僕が直接読んだわけじゃないのに)

(言ったではないか。我らの経験はお互いに共有される)

(信長さんって、英語が読めたんですか?)

(今朝覚えた)


 僕は呆れてしまった。こちらが九年以上かけて学んだ成果を、僅か二時間程度のネット検索で追い越してしまう。

 さすが知力二五五――人類史上最高峰の英知の勝利だ。

 おかげで、いつもは苦しむ英文和訳をスラスラと説く余裕ができた。

 同じペースで顔を上げてる者は、帰国子女の三、四人しかいない。


「おっ」

 皆の出来具合を回って見ていた講師が、僕の隣で立ち止まる。普通なら持ち帰って次の週に提出する課題を、制限時間の半分の時間で完成させていたからだ。

「君はずいぶん英文を読み込んでるんだな」

 講師は驚いて僕の顔を覗き込んだ。

「君、名前は?」

「佐伯慎哉です」

「帰国子女か?」

「いえ、海外で暮らしたことは一度もありません」

「すごいな。ネイティブでも苦労する難しい英文なのに」

「……」

「ふーん。さては外国人のガールフレンドがいるな」

「と、とんでもない」

 慌てて否定してから、講師が冗談を言ったのだと気づいた。

 周囲から失笑が漏れる。

 これだから人間は嫌いだ。

「しかし、たいしたものだ。これからもがんばれよ」

 講師は上機嫌で離れて行った。



 授業が終わると同時に、席を立ち出口に向かった。

 なるべく、目立たないように。

「待てよ、凄いじゃないか。つき合い悪いと思ったら、密かに英語の勉強か。一度も海外で暮らしたことのない慎哉君なのに」

 嘲るように声をかけて来たのは、同じ法学部一年の前田隆道たかみちだ。

 僕は相手をせずに、教室を去ろうとした。

 しかし、隆道は逃がさないように僕の右腕を掴む。


「だから待てと言ってるだろう。どうせ次の授業は午後からだろう。俺たちにつきあえよ」

 隆道は執拗だった。

 今日は二限目が空き時間で、お昼を挟んで三限目と四限目に授業がある。

 普段ならすぐに自転車で大学の外に出て駅に向かい、明峰大生は誰も来ない喫茶店でコーヒーを飲みながら読書する。

 十二時になったら、そこで昼食をとって戻って来るのだが。

 なんて言って断ろうか思案していると、横から別の声がした。


「久しぶりだね、慎哉君。私たちにも英語上達の秘訣を教えてよ」

 声の主はショートヘアが良く似合う三枝梨都さえぐさりつだった。

 その隣には梨都の親友の篠田朱音あかねが、二人の後ろには隆道の友達の宝生研人ほうしょうけんとがいた。

 久しぶりに梨都の顔を近くで見て、僕のテンションは急上昇する。

 二か月前、僕は確かにこの女性ひとに恋をした。

 そして、すぐにその場で消えてなくなりたいような痴態を晒して、彼女のことを忘れようと努めた。


 それなのに、梨都は笑顔で接してくれる。

 切れ長の目は澄んだ瞳で、くっきりとした二重瞼が優しさを与えてくれる。細く尖った鼻筋は、繊細さとノーブルな気品を感じさせ、瓜実型の頤のラインは、シャープで理知的な印象を与える。

 ああ、なんてキュートなんだろうと、僕の心が無条件降伏したところで、とどめの一言が梨都の口から放たれた。


「ねぇ、久しぶりに話をしようよ」

 これで断れる男がいるなんて、絶対に信じない。

 僕はあっさり観念した。

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