第52話 帰るべき場所

 非常灯が照らす薄赤い闇の中で、老人は安らいでいた。


 それにしてもよく歩いた。

 今日は我ながら良い仕事をした。

 家に帰り、孫の遊び相手をして、そうして夜はきっと良い夢を見られることだろう。

 暖かく…暗く…どこまでもどこまでも降りながら続く道の夢を…。


 一仕事終えた後の心地よい満足感に浸っていた町田は、ふと己の領域に何者かの気配が近づいてくるのを感じて、立ち上がった。


 やがて暗闇の中から歩み出てきた、大柄で見事な肉体をスーツに包む人物に町田は頭を下げる。


「これは…社長。ご帰宅ですか?」


「ああ」


 ヒロキの住まいは、町田が設けた休憩所のさらに奥にある。

 処理施設の外に聳え立つ本社ビルの一画には、厳重に警備された役員専用居住区画が設けられているが、所詮はダミーに過ぎない。


 ヒロキが帰るべき場所は、ここなのだから。


「今日はご苦労だった」


 ねぎらいの言葉に添えて町田に渡された封筒は分厚い。


「いつもありがとうございます」


「なに。正当な報酬だ」


 それを町田は頭を下げて両手で恭しく受け取った。


「お茶でも飲んでいかれますか」


 町田は背後のテーブルと椅子を示したが、ヒロキは首を左右に振った。


「いや。いい」


「そうですか」


 町田も強くは勧めず、去っていくヒロキの広い背中を見送る。

 遠ざかっていく背中がとまり、こちらを振り返った。


「町田さんも、こちらに来るかい?」


 ヒロキのこちらを見る黒々とした穴のような瞳に、笑顔を浮かべていた町田は、ぶるり、と背筋が震え冷汗が噴き出るのを感じた。

 工作員達を相手にしていた時とは比較にならない全霊の努力を費やし、町田はなんとか笑顔を保つ。


「いえ、私は…まだ…怖れ多いことです」


 思い通りにならず、恐怖でもつれる舌を意思の力で総動員し、町田はなんとか招待を断るだけの言葉をひねり出した。


「そうか」


 再び背を向けて去っていくヒロキに、町田は怖れの念にうたれて深く、深く頭を下げ続けた。

 それはヒロキが完全に闇の中に消えてからも、しばらくの間続いた。



 どれくらいの間そうしていただろうか。

 老人は、また別の気配が近づいてくるのを感じた。


 ぱたぱたと軽い足音に続いて現れたのは、大柄なヒロキとは好対照の中肉中背の男だった。


「えっと、社長はこちらに来ませんでしたか?」


 せかせかと歩きながら発された男の声は周囲の闇にそぐわず信じられないくらい明るく、そして活力に満ちている。


「石田さん、どうかされましたか?」


 町田の問いに、石田はせっかちに体を揺すりながら今にも足踏みを始めそうにしていた。


「ちょっと実験結果で知らせたいことがあったんです。それで社長はここに来ましたか?」


「ええ。奥の方に向かわれました」


「ありがとう!」


 町田が答え終わる前に、来た時と同じくぱたぱたと軽い足音を立てて闇の奥に石田は消えて行った。


 町田は怖れと呆れとが相半ばした感情を処理しきれずに、ただ首を振って忘れることにした。


 老人には帰る場所、帰る家がある。


 思わぬ手当が出たことであるし、今日は孫に良い土産を買って帰ることができるだろう。

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