第51話 87


 巨大な処理場の通路は壁や天井にどんな毒物が含まれているかも判らない廃液の配管網が走っていて、微かに灯る赤い非常灯が金属製の無機物を有機的な血管のように見せている。


 汚染防止の強力な空調が働いているはずだが、空気は何故か血や脂の匂いで生臭く、生き物の体内にいるかのような錯覚をルイーズは覚えた。


「…ここに誘い込んだのね?」


 返答は期待せずに背後の暗闇に呼びかける。


 案の定、ルイーズの問いかけに暗闇に潜む老人からの答えはなかったが、なぜか老人は出会った時の穏やかな笑顔でいるだろうことだけは確信があった。


 無数に積みあがったドラム缶を抜けて逃げることは可能だろうか。

 ルイーズは脳内で素早く行動をシミュレーションする。


 ざっと見える範囲では乱雑に積み上げられているだけなので、いくつかのドラム缶蹴倒して登りきれば、ドラム缶の隙間を縫って壁の向こう側に抜けられるかもしれない。

 老人の持久力が如何に優れていようとも、登山であれば自分の方が脚が長い分だけ有利であるし、崩れやすい崖や障害物を乗り越える訓練も受けている。


 きっと逃げ切れる。


 ルイーズはタイミングを見計らい、ジリジリと下がる。


「…お年のわりに、ずいぶんと足が速いのね」


「お陰様で、ずいぶんと健康になりましたからな」


 老人が闇の中から向かってくる気配を感じた。


「近づかないで!」


 ルイーズは老人に拳銃を向けて牽制しつつ、背後に積み上がった通路を塞いでいるドラム缶の一つを倒そうとする。

 最初の足場にするためと、老人に向けて転がして反応をみるためだ。


 もしも誰かが通路を塞ぐために積み上げたのだとしても、これだけの数を短時間で中身が入った状態で積めるはずがない。

 多くは空のドラム缶に過ぎず、この数はハッタリだろうから。


『くっ・・・』


 意外と重量があったが、ルイーズはなんとか拳銃を持っていない片腕でやり遂げる。


 その時、ガンッ、と硬い床にドラム缶が接触する音に混じって、男のうめき声が聞こえた。


 今倒したばかりの、空であるはずのドラム缶の中から。


『えっ』


 銃口と共に老人に向けていた視線が、思わずドラム缶に吸い寄せられる。

 

 聞き違い、だろうか。

 この闇の中の異常な状況で、聴覚まで苛まれてしまったのか。


「聞き違いではありませんよ、ルイーズさん。やれやれ、お仲間にひどいことをしますなあ」


 道端にゴミを捨てたことを咎めるような調子で、老人が声をかけてきた。


 お仲間。

 ということは、つまり。

 まさか。

 信じられない。


「あなた…何をしたの?」


「なに、とは?」


「とぼけないで!言いなさい!」


 詰問するルイーズの声は、もはや絶叫に近かった。


「いつもの仕事をしただけですよ。迷い込んできた猪をドラム缶に詰めたのと同じです。ほら、獣害用の白いドラム缶ですし、通し番号がついているでしょう?」


 ルイーズが倒した白いドラム缶には黒いペンキで「87」と番号が書かれていた。


「猪?猪ですって!?」


「若い女性に猪呼ばわりは失礼でしたかな…鹿の方が良かったですかな。まあとにかく、私の仕事は冊に突っ込んで死んでしまった獣をドラム缶に詰めることなんですよ」


 老人は、自分の仕事を嬉しそうに語った。


「この仕事も結構コツがありましてな…長く続けているうちに色々と力加減がうまくできるようになるんですな。おかげで会社には雇用延長もしていただけましてな。孫に小遣いもやれます。ありがたいことです」


「…このドラム缶の中身は人だっていうの?」


 構えた銃と語尾が僅かに震えた。


 背後には膨大な数のドラム缶の山がある。

 足元には「87」と書かれた人の詰められたドラム缶がある。


 老人はルイーズの疑問を否定しなかった。


「ええ。まあそうなりますかな」


「これが…このドラム缶が全部?」


「ええ。毎日毎日、とても多くの方がいらっしゃいますから」


 最初にメンテナンス通路で出会ったときのように、彼女に茶を勧めたときのように、老人は人好きのする笑顔を満面に浮かべていた。


「あなたは…いいえ、あなた達はいったい何なの?」


「さあ…考えたこともありませんな。外人さんの言うことは難しくていけない。もういいですかな?孫を迎えに行く時間に遅れては大変ですからな」


 老人が一歩、無造作に距離を詰める。


『ひっ…』


 ルイーズは無駄を悟りつつ、小型拳銃の弾倉が空になるまで引き金を引き続けた。


 銃声は血管のように薄赤い硬い廊下に反射して響き渡り、やがて途絶えた。


 ★ ★ ★ ★ ★


 想定していた成果が一向に上がらずに焦る欧州共同視察団と、要請をのらりくらりと躱すMCTBH社経営陣との会談は長引いていた。


 詳細は知らされていなくとも視察団の官僚達は裏で本国が何らかの工作活動を仕掛けていることは察知できる程度には有能であり、会談を続けること自体が陽動になることを承知していたのである。


 だが、欧州の官僚たちの涙ぐましい努力は報われることなく終わる。


『会談中、失礼します』


 ヒロキと石田の元へ役員の一人がメモを持って耳打ちをした内容が一連の事態の終息を告げたからである。


「サイバー攻撃の被害は限定的。放射性廃棄物の処理ラインに被害なし。それと・潜り込んだ工作員は全員処理したそうです」


「そうか」


 ヒロキの感想はそれだけだったが、間もなく欧州共同視察団の官僚達にも同様の報告が伝わったらしく、青くなった彼らの方から辞去する旨の通達があった。


 結果として、今回の欧州共同視察団の具体的な成果はなく、官僚的な作文による無個性で無意味な共同声明が発表されただけに終わった。


 MCTBH社の被害は、サイバー攻撃により業務が少しだけ遅れことと、女子トイレで気絶して縛られた状態で見つかった若い男性社員が譴責処分を受けたことだけであった。

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