第47話 女工作員の天秤
(おかしい)
ルイーズは非常灯が点灯した薄赤く照らされた通路を進みつつ、焦燥を隠せずにいた。
通常の照明が落ちて非常灯が点灯しているのは、サイバー攻撃で通常電源を落とすことに成功したからだろう。
他国のエージェント支援のために行われていることだろうが、ルイーズが便乗するには都合がよい。
通路には第34番通路との表示が読める。このまま35メートル進んで右折するとメンテナンス要員用の扉があるはずで、扉は紙袋に入っていた偽装IDで開くはずだ。
全ては計画通りに進行している。
事前情報は正確であり、作戦行動につきものの事故や突発的な事態も起きていない。
(おかしい)
だというのに、ルイーズの第六感は焦燥を伝えてくる。
何かがおかしいはずなのに、おかしいことがわからない、そんな焦りと掻痒感が去らない。
目標の施設までは壁を無視して進めば直線距離で500メートルに満たない。
通路はクレーターの傾きに沿って緩やかに下っており、上り続ければ山頂に行き着く登山のように、下り続けさえすれば数分で自ずと中心の夢機械が設置されている施設にたどり着くはず。
(おかしい)
血のように薄赤く照らされた通路に異常はない。
スーツの電子的偽装が働いているせいか、センサーや警報は鳴っていない。
陽動作戦がうまく運んでいるためか、誰とも通路で会うこともない。
全ては順調なはず。
何もかもうまく運んでいるはずなのだ。
立ち止まって耳を澄ませてみても、壁際を走る大小のパイプからはポンプが作動する低音と液体の流れる水音と、コンベアを廃棄物が流れるガチャガチャという騒音が聞こえてくるばかりだ。
施設の騒音のお陰で、ゴム底を貼ったハイヒールで歩く自分の足音も響かずに済んでいる。
そこまで意識が及び、ルイーズは立ち止まった。
『なぜ、施設の作動音が聞こえているの?』
サイバー攻撃が成功しているのであれば、施設の照明だけでなく施設自体も停止していなければおかしいのだ。
この施設は掘り込まれて低くなった中央の夢機械に全ての廃棄物と廃液が重力で流れ込む設計になっているのだから、電撃が落ちて施設の稼働が止まったら廃棄物と廃液が溢れてしまうことになる。
実際、そうした事故が数年間に発生した、と報告書で読んだ覚えがある。
『独立したバックアップの電源系統で動いているの?いいえ、これだけの処理を行う施設を多少の発電施設やバッテリーで支えるのは無理ね』
おそらくは内通者を通じて事前に入手したであろう図面には、通常の通路だけでなく従業員専用通路、メンテナンス要員専用通路、貨物用通路、各種整備用のハッチ、さらには停電時のための発電施設やバッテリー区画まで詳細に記されていた。
『まさか…図面に記されていない電源があるの?』
だとすれば。
『…あの詳細な図面はMCTBH社が意図的に流出させたもの?』
ということは。
『サイバー攻撃は成功していない?成功したように見せかけられている?』
つまり、自分の侵入を含めてMCTBH社は欧州共同視察団による攻撃と侵入を万全の態勢で待ち受けていたことになる。
たかが東洋の一企業が欧州の大国達を向こうに回して、そんなことが可能だろうか。
ルイーズは、いままさに切所に立ち尽くしていた。
一方には今すぐ撤退する道がある。
前金10万ユーロ分の仕事はしたのだから、リスクを感じれば一目散に撤退する道。信用を失う分、今後は欧州情報機関から仕事を外注されることは難しくなるが、彼女ほどのスキルとこれまで貯めた資産があればどこででも生きていける。
もう一方には任務を続ける道がある。
情報活動で突発事態が起きることは日常茶飯事である。そのトラブルを現場で臨機応変に解決できるからこそ、ベテラン工作員は重宝されるのだ。
今のところバックアップはツールの用意といい情報面の支援といい、うまくやってくれている。仮に彼女が失敗したとしても日本の情報機関や企業の対応が甘いことは国際的に知られている。
実のところ彼女の任務は3つのレベルに分かれている。
第1のレベルは、MCTBH社の廃棄物施設中心に存在する夢機械の写真もしくは動画を撮影することだ。各国の技術者は映像さえあれば技術の方向性を推量できる、と言っているらしい。達成できれば20万ユーロが約束されている。
第2のレベルは、MCTBH社の放射性廃棄物処理計画を妨害することだ。具体的には放射性廃棄物処理ラインの機械に支給された爆発物を仕掛けること。実際に与える損害はともかく爆発した事実さえあれば政治的に責任を追及し事業を停止ないし遅延に追い込むことができる。これは達成できれば30万ユーロの報酬と言われている。
第3のレベルは、MCTBH社の主要人物の暗殺ないし誘拐である。オーナー社長のヒロキもしくは実質的な経営者と目される石田の暗殺、MCTBH社の研究部門の人員の誘拐。これは50万ユーロ以上、とのこと。
いずれも諦めるには大きすぎる報酬だった。
不幸なことに、ルイーズはヒロキを直接に目にしたことがなかった。
彼女は若く美しい西洋女性にありがちなことに、やや性的魅力に欠けるアジア系男性に対して軽くみる傾向があり、そのイメージを企業へと敷衍して考えてしまった。
(まあ何とかなるわ。いえ、何とかしてみせる)
そうして、ルイーズは後者の道を選んでしまった。
★ ★ ★ ★ ★
ルイーズは慎重に進み続けた。
小型拳銃を右手に構え、左手に持った偽装IDを慎重にメンテナンス用ハッチにかざすと、軽い電子音と共に扉のロックが外れる音がした。
(ほら、何ともない)
自信を深めたルイーズは、大胆に、かつ慎重にハッチの中にその体を滑り込ませる。
メンテナンス用通路の中は、従業員用通路よりもさらに騒音が激しく、照明も暗いため、訓練を受けた彼女でも視界を確保するのに苦労する。
「おや、迷われましたか?」
その時、どうにか方向を確かめて歩き始めた彼女へ、真っ暗な通路の先から日本語で声がかけられた。
『誰ッ!…あら?』
それは、こんな場所には不自然なほどに自然な笑顔を浮かべた人の良さそうな、小柄でつなぎを着た老人であって、安堵したルイーズは咄嗟に拳銃を背後に隠して微笑んだ。
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