第25話 「それ」は家に帰る

 竹村綾乃は閑静な郊外の住宅地に住む主婦である。

 今は夫と娘の3人暮らし。

 もう1人ぐらい子供は欲しいと思っている。


 今朝もいつも通り夫を仕事に送り出した後で、綾乃は娘がリビングにいないことに気がついた。


「またなの?ほんとうに飽きないわね…」


 5歳になる娘の梨乃りのは少し目を離した隙にいつの間にか姿を消す、という特技を持っている。

 そうして時間がないというのに隠れん坊遊びを仕掛けてくるのだ。

 母が必死になって探すので、それが楽しいらしい。


「さーて、りのはどこに隠れたのかなー?」


 もうすぐ保育園バスの迎えが来るのに、またどこに隠れているのか…

 綾乃が軽くため息をついて、さて今日の隠れ場所はと探そうとすると、娘が2階からとてとてと階段を降りてきた。


「あら?今日はえらいのねー。さあさあ、保育園の用意して」


 まずは顔を洗ってご飯を食べさせてそれから着替えさせてカバンのチェックして……


「ねえママー、おとなりにだれかおひっこししてくるの?」


 忙しく今朝のスケジュールを組みなおしていた綾乃の思考は、娘の一言で中断された。


「あら。お隣は空き家よ。お引越し屋さんのトラックでも見たの?」


 竹村家の隣家は数年前から空き家となっている。

 物騒なので誰か適当な人が住んでくれるといいのに、と綾乃は常日頃感じてたので、それは良いニュースに思えた。


「ううん。おとなりのおうちの2かいに だれかはいっていったの。すんでるのかな」


「えっ」


「まどから、エイって。すごいねー」


「ダメよ!梨乃はここにいなさい!窓に鍵をかけて…それから…それから…そう、警察!…」


 とつぜん厳しい顔になってスマホを取り出した母を、娘は不満げに頬を膨らませて見上げていた。


 その人が、いかに身軽に窓へジャンプしてとりついたことや、軽々と長い腕で鍵付きの窓をあけたこと、そして毛糸の帽子を被っていたこともママに教えてあげたかったのに…。


 ★ ★ ★ ★ ★


 萬田刑事と長井刑事は「連続殺人事件の容疑者立てこもり場所を発見」との報を受けて急行していた。


「あの野郎、郊外の住宅地に隠れてやがったか。あれだけの事件を起こして逃げてねえってのは、いい度胸だ」


「しかし、そいつ本当に犯人ホシなんですかね?ただのホームレスって線はないんですか?あとは空き巣とか」


「どうかな。それなら今頃は確保されて応援はなし、って話になってるだろうよ」


「…あー。萬田さん、どうも心配はないみたいですね」


「すげえ応援だな。本部長のやつ張り切りやがって…」


 2人の刑事がようやく現場に駆け付けると、近隣から応援に押し寄せた警官達や車両で一杯となっており、さながら警察官の制服やパトカーの一大展示場の様相を帯びていた。

 何重にも住民やマスコミを遠ざけるための封鎖線が設けられ、周囲の住宅からは住人の退去誘導も行われている。


 ここまで規模が大きくなってしまうと、一介の刑事である萬田や長井に関与できる仕事は少ない。

 顔見知りの警官を見つけて、萬田は情報収集のために話しかけた。


「すげえ人数集めたな。犯人が空振りってことはねえのかい?」


「近所の子供が犯人の姿と帽子を見てます。腕がすごく長くて毛糸の帽子を被っている、と証言したそうですから堅いでしょう」


「で、あの家は?誰か住んでるのか?」


「いえ、無人です。何年か前に住人が一家離散して夜逃げしたみたいで、それからずっと空き家だそうです」


「なるほど…じゃあ、さっさと踏み込んで逮捕しちまおうぜ。なんで包囲したままなんだ?」


 背格好の証言からすれば、連続経営者一家殺人事件の犯人のように思える。

 であれば、突入して引きずり出してしまえばいい。

 包囲したまま遠巻きにする理由がない。


「…まさか人質でもいるのか?」


「いえ…そうじゃなくてですね。1時間ほど前に県警が突入班を送ったんですが…失敗したそうです」


「なにっ?」


 県警の突入班といえば警察官の中でも体格と逮捕術に優れたエリートである。

 いかに現場が一般住宅で狭くとも普通の犯罪者など相手にならないだけの訓練を積んでいる。

 それでも失敗したとなると、次は銃器を用いる無力化しかない。


「現場が室内で暗いのと厄介な刃物を持ってるようで…3人受傷です。今、上の連中が大慌てで偵察やらの計画を練り直してます」


「なんてこったい…」


 あらためて周囲の車両を見れば、パトカーに混じって救急車が数台停まっている。


「で、どうすんだ?上は次の手をどう考えてる?このまま包囲か?」


 室内で刃物を持って人間離れした犯人と渡り合うのは、いかに鍛えた警察官でも分が悪い、と判明したわけだ。

 包囲して時間を稼ぎつつ犯人の疲れを待つ、というのも一つの選択肢に入る。


「上はどうも東京の警視庁からSATを呼ぶらしい、と噂が流れてます」


「SATか…」


 SAT とは Special Assault Teamの略。警視庁警備部に所属する特殊部隊である。

 萬田は噂でしか聞かないが、SMGのような特殊銃器やフラッシュバンのような特殊装備、防弾装備に身を固めドイツ式の突入訓練を積んでいるという。

 似た組織にSITがあり、こちらは特別捜査チームを意味し犯人逮捕を目的として特別な装備や訓練を積んでいる、と聞く。

 いずれも現場の刑事には縁のない組織だ。


「SATってことは、上は犯人を射殺する気なんですか?」


 長井刑事がくってかかるのを、萬田はたしなめた。


「あれだけの数の殺人事件を起こして、まだ凶器を持ってるんだ。仕方ねえだろ」


 経営者一家殺人事件の犯人が殺した人数は延べ25人。上は78歳、下は4歳まで幅広く大量に、しかも残酷に殺している。

 世間に与えた衝撃は大きく、裁判にかけられても死刑以外の判決はあり得ないだろう。


 報道管制を敷いたはずだが、空には報道ヘリも飛び始めている。


「…夜までには片をつけたいところだな」


 萬田はどんよりと曇りだした空を見上げながら独白した。

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