第13話 鴨は穴に向かって

 そうだ…さっさと押印してしまえ。


 誠実で知的で親切そうな笑顔の裏で、石田はのことを考えている。


 押印さえ済んだならば、契約書を持ち帰ったその足で学内の弁理士と弁護士のところで権利化する手はずは整えてある。

 権利者は、もちろん自分と研究室となる。


 なぜなら、ヒロキが技術の権利を持っていたところで世界を変えることはできないからだ。


 地方零細企業の中年男ヒロキが偶然条件を知っただけに違いない陳腐な技術は、大学の設備と優れた人材を投下して社会に役立てることができるよう、自分が適切に舵取りをしなければならない。


 石田が華麗な将来を想像しつつ見つめる中、ヒロキは契約書のページ数を確認するようにペラペラと無造作にめくり始めた。


「結構ページ数ありますね、契約書」


 契約書は法学部の若手に声をかけて作らせた特別な契約書である。

 万が一、ヒロキが法廷に訴え出ても勝てるよう、あらゆるケースが想定されているために通常の契約書よりも付帯事項は多い。


 内容の理解は難しくても、覚書きというにはページ数が多すぎないか不思議に思う程度の知識はあるようだ。


 そう聞かれた場合についても、石田は言い訳を用意していた。


「ええまあ、大学側のテンプレートですので。大学も手続きについてはお役所ですから、そういう書類とかはとにかく細かいんですよ」


「なるほど、そういうものですか。大学もお役所ですか。そうかもしれませんね」


「そうなんです、ニュースなんかでご存じかもしれませんが、交通費とかコピー用紙も100円とか1枚から書類申請が必要で、とにかく事務局がうるさいんです」


「どこも大変ですねえ」


 ふむふむ、と肯きながら、ヒロキは読み終えた漫画雑誌のお気に入り連載ページを探すように、契約書をめくり続ける。


 くそっ。早く押印しろ。

 それとも、まさか契約書の仕掛けに気がついたか?

 やはりもう少し条項を絞り込んでおくべきだったか…いや、あのスピードでめくって契約書の中身が読めて理解できるはずがない。

 落ち着け…相手は個人事業の中年男だ。わかるはずがないんだ…。


「む!?」


 と、ヒロキがページを捲っている最中に動きを止めた。


「ど、どうかしましたか!?」


 石田が思わず声をかけると、ヒロキが恥ずかしそうに答えた。


「いやあ…ちょっと読めない漢字が多いと本屋に行っているような気分になりまして、ついつい尿意が…。すみません、ちょっとトイレに行ってきますね」


 ヒロキが「失礼」とトイレのために席を外すと、担当者が小声で石田に話しかけてきた。

 この担当者も、とうぜん学内の石田の協力者、である。

 事務局で年寄り相手にルーチンワークで燻っていたところに声をかけたのだ。


「石田先生、惜しかったですね。すぐに判子を押すように見えたんですが」


「ああ。もう一押しだな。このまま行けるだろう。契約書を持ち帰ったら手筈はわかってるな」


「それはもう…」


 2人は被害者ヒロキがいないのを良いことに小声で今後の方針の確認と相談をする。どうしても声が弾むのを抑えられないのは、招来の希望に気分が高揚しているかもしれなかった。


 それから少しして、ヒロキが「いやーどうもすみません」と心なしスッキリした顔をして戻ってきた。


 さっそく判子を、と担当者が持ちかけるのを、その前に、とヒロキが制した。


「契約を交わす前に、少し今の事業のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 中小企業の経営者は自分の事業を語るのが好きである。

 自分がいかに有能で、いかに苦労人で、いかにして困難を乗り越えて成功をつかんだか。

 会社と自分がいかに一体であるか、という自慢話を事業説明として語ることで承認欲求を満たすのだ。


 石田は目線で担当者に合図をして契約書を引っ込めさせると、いったん聞く姿勢になった。


 どうせ後で権利は全て取り上げるのだ。

 今この時間くらい、このヒロキを持ち上げて気持ちよくさせても良いだろう。


 ★ ★ ★ ★ ★


 石田の予想とは異なり、ヒロキの説明はしごく即物的なものに終始した。


 そこにヒロキの人格を感じさせるものはなく、示されたのは、数字、数字、数字、である。

 しかし、それでも石田を驚愕させるのに十分な数字が並んでいた。


「10tダンプ1台で20万円!?そんな計算で大丈夫なんですか?普通は廃棄物の種類で単価を変えるものでしょう?」


「まあ、うちの技術だとボードでもガラでも一緒に処理しちゃうので。いちいち分別とかしてると時間単価が下がりますし」


 呆れたことに、ヒロキは廃棄物を分別して処理していなかった。

 単価を見直すだけで、今の売上の3倍は堅いだろう。


「それで開業5カ月で…売上が約1億2000万円、ですか…」


「今の体制だと1日4台分ぐらいしか処理してないですからね。経費も少ないですし。処理量としては本来はもっと出来るんですが…」


「例の困った取引先ですか」


「いろいろとちょっとした嫌がらせがありましてね。あとは建築廃材だけじゃなくて、たぶんもう少し難しい廃棄物も処理できると思うんです。医療廃棄物とか…放射能残土とか」


 ちょっとした嫌がらせの内容についてはヒロキは具体的に説明しなかったが、こういった業界でもあるし、多少は何かあるのだろう、と石田は想像した。

 それよりも、今の発言には聞き捨てならない内容があった。


「放射能も!?…いえ、確かに土地の検査結果の信じられないクリーンさからすると放射性廃棄物も処理できる可能性はある。放射能マーカーで調査する必要はあるかもしれませんね」


「そうそう。をしようと思うと、先生が仰るようにモニタリングポスト、ですか?そういう検査機器を設置してデータを出さないと信用してもらえない、ってのはあると思うんです。ですから、ご協力いただけたら、というのはあるんです」


「なるほど…いや、それにしても素晴らしい技術だ」


 思わず石田が唸ると、ヒロキはにこやかに「では、ちょっと見てみますか?」とソファーから腰を上げた。

 ヒロキの態度も口調も軽かったので一瞬何を言われたのかわからず、やや遅れて「ぜひ!」と石田は返事をして、立ち上がった。


 なんとガードの緩い…契約前に技術を見せるつもりなのか。

 やはりこの技術は自分の管理下におかなければならない。


 石田はヒロキの背中を追いながら、自分の戦略の正当性を確信していた。


 ヒロキが案内するその先に、何が待ち受けているのかも知らずに…

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