参の湯 銭湯♨にドボン

 弐の湯でお話しましたお風呂のない家が実家だった橙であります。

 しかし、この実家には、普段、祖母一人が住んでおりまして、父の職場の関係上、私の家族の生活根拠地は別の市町村でした。夏休みやお正月、また、特別に用があるときだけ実家で過ごしていたわけです。

 ですから、この実家に赴いての生活を私は相当嫌っていました。直線距離では40kmくらいしか離れていないのですが、鉄道だと乗り換えありで2時間半掛かりました。車だと50分で着きますが、確実に車酔いするような峠を通らなければなりません。そして、ようやく着いた挙句が風呂が無く、トイレも外、網戸もなく、蚊やムカデと共生しているボロ家なのですからブルーになることこの上ありませんでした。

 しかし、実家に着いてしまえば、否応なく実家生活になります。

 風呂は、歩いて10分ほどのところにある銭湯を使いました。もちろん「スーパー」という冠が付かない普通の銭湯です。


 夏に私一人だけ実家に預けられたことがありました。4、5歳の頃だったと思います。生活根拠地ではない田舎街故に、友達も居らず、遊び相手は自転車のみでした。

 祖母は、まだお日様が高い2時半頃に私を銭湯に連れて行きました。祖母と一緒なので女湯の方に入ります。

 子どもの薄い肌には熱すぎる湯船に入ると肛門にキューンと痛みが走ります。下からブクブクと大きな泡が上がってくる様は、地獄の釜ゆでを連想させます。私は思わず、銀色のノズルを回して水をドバーッと湯船に注ぎますが、特に誰からも咎められることはありません。

 湯上り後も、しばらくは汗が引かずにダラダラ出てきます。祖母は、白いババシミーズの格好のまま、番台のおばさんにお金を払って私にコーヒー牛乳を買ってくれました。飲み物が入った小さな冷蔵庫の天井に、赤い牛乳の蓋開けピック(これって今でもあるのかな~)が置いてあって、それでコーヒー牛乳の茶色いフィルムごと一気に蓋を開けるのが祖母流でした。


 小学生3,4年生の時の夏休みのことです。

 その日も、昼の3時頃に入りに行きました。というのは、その日は地元のお祭の夜宮で、クソ面白くない実家住まいでもお祭にでも行けば気が晴れるだろうと思ってお風呂を先に済まそうと思ってたんでしょう。

 もちろん、その年頃なので一人で男湯の方に入ります。

 昼の3時にしては、多くの脱衣かごに服が収まっていて、違和感を覚えました。

 私も服を子ども用の小さな脱衣かごに収めてから浴室のドアをガラッと開けると… 其処には信じられない光景がありました。

 左右二列の洗い場はすべて埋まっていて、その多くの男たちの背中一面に絵が描かれていたのです。私は本能的に『これはヤバい!』と思いましたが、すでに全裸の私の右足は浴室のタイルに一歩前進していましたので、止まっている左足を前に出して浴室のドアを閉めてから湯船の方に恐る恐る歩いていきました。湯船の縁においてある黄色いケロリンの桶で湯船のお湯をすくって掛湯します。もちろん、その日も激熱です。思わず、いつもの通りに、銀色のノズルを回して水を湯船に注入します。


「おい、小僧、あんまり水うめんなよ」


 湯船に一人浸かっていた坊主頭の大柄な男が私をいさめます。私は慌ててノズルを戻して、ブクブク泡の出ている地獄釜に身を沈めました。

 改めて、左右の洗い場を見ると、背中に絵が描いてある男たちが洗髪していたり、体をタオルで洗っていたりしています。

『これは、大変なことになった』と思いましたが、もう、どうしようもありません。激熱湯に浸かっているだけでなく、極度の緊張から、最早、頭から大量の汗が顔に流れ落ちてきます。

 一人が脱衣場に帰ると、先程、私をいさめた大柄な男が湯船から上がって空いた洗い場に向かいました。その男の背中も真っ赤な何かの絵が描かれていました。


『もう、だめだ。熱すぎる』


 とうとう観念した私は、湯船から上がって一つ空いた洗い場に座りました。よりによって、さっき、湯船から出た赤い絵の男の隣の洗い場です。すぐにでも体を洗って、さっさと浴室から逃げ出て行きたかったのですが、あまりの暑さで、下を向いて息を整えていました。


「おい、坊主、背中を洗ってくんねえかな」


 小僧から坊主に名前を変えられた私に、その男はそう言って石鹸の付いたタオルを差し出しました。最早、逃げることができない状況であることを幼心ながら悟った私は黙ってタオルを受け取りました。

 男の背中にまわって、まじまじとその赤い絵を見ると、右手に剣みたいなものを持ち、左手はお坊さんがジャラジャラと使う紐のようなものを持った怖い顔した鬼の絵でした。私は、口から牙が出ているその鬼の顔を隠すようにおそるおそるタオルを上下させます。


「おい、坊主、もっと力を入れて洗え」


「で、でも、絵が消えませんか?」


 男を怒らせないように私は精一杯、丁寧に尋ねました。


「うはははは~ 大丈夫、この絵はしっかり刻まれてっから消えねえんだ。力入れて両手で洗え~」


 男がそう笑いながら言ってくれて、いくらかホッとしたことを覚えています。


 その後は、私が地元の子かどうかとか、お祭は楽しみにしているかとか、男は焼きそばの的屋てきやの店を出しているとかの会話をしながら背中を洗いました。そう、この銭湯にこの時間来ている男たちは、皆、的屋の男たちで、商売始める前に風呂に入りに来ていたのでした。

 お前の背中も洗ってやる、と男が言うので全力で遠慮したのですが、子どもは遠慮しちゃいけねえ、とか言われて薄い背中を男に差し出しました。


 体を洗い終わると、私は、男たちで溢れんばかりになっている湯船には入らず、脱衣所に引っ込みました。当然のことです。


 服を身に付けて、それでも顔に流れ落ちる汗をバスタオルで拭いていたら「おい、坊主、これさっきの背中洗ってくれたお礼だ。飲みな」と赤鬼の男が瓶ジュースを私に差し出しました。まだ、一度も飲んだことがない炭酸飲料のジュースでした。『子どもは遠慮しちゃいけねえ』の男の言葉を思い出し、両手で受け取ってお礼を言いました。


 その夜、的屋が並ぶ道を一人で歩いていたら、焼きそば屋で白いハチマキに、白いシャツ、白い枚掛けをした赤鬼の男が焼きそばをコテで焼いているのを発見しました。

 私は、その場を早歩きで通り過ぎました。当然のことです。



 参の湯はここまで。さあ、♨あがりましょう。ふぅ~




*近況ノートに【補足】あります♨





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