第20話 御所地選定

 和歌江島を左手に見て広がる浜辺を材木座と呼んだ。

 材木屋が多く商いをしており、繁栄を極めていた。

 天災や火災の多い鎌倉で、材木屋が栄えるのは、後の江戸時代と同じ絡繰りだ。

 なかでも大きく商売を広げた材木屋に、誰の指示か、思いも因らない話が持ち込まれた。

「美しい娘御を海神さまに捧げなされ。さるれば、更なる鎌倉の繁栄と共に歩むことが出来まする」

 天変地変はいうに及ばず、度々の火災が鎌倉の栄華を頓挫させた。

 しかし、材木商はその度に肥え太った。

 当然、ねたそねみの標的となった。


 三代将軍源実朝が殺害された後、京都から僅か二歳で迎えられた三寅みとらは、北条政子に扶育され、将軍の仕事も尼将軍政子が代行していた。

 嘉禄元年(一二二五)六月、尼将軍北条政子が逝去した。後見する将軍の元服を目前に控えての無念の彼岸行きであった。

 それでも十二月、元服した三寅は、正式に四代将軍となり頼経よりつねと名乗った。

 その元服を控え、新御所の移転を巡って、揉め事が起きた。

 まず、場所で揉めた。

 北条泰時によって大倉から移転した幕府がある宇津宮辻子が良い、いや若宮大路だと幕府の御所地選定会議が何度も開かれた。もっぱら地相を占う金浄法師にも泰時から直接に問い合わせがあった。

「源頼朝右大将家の法華堂の御所の地は、四神相応しじんそうおうに則った地でございます。他の地に移る必要がどうしてありましょう。西方を広げれば宜しかろう」と、金浄法師は、自信をもって回答した。

 そして法師は、予てより存じ寄りの材木商に密かに資材の準備を申し付けた。

 大きな仕事である。

 しかし、泰時は、更なる不審を抱き、法華堂と若宮大路のいずれの土地が良いかと思案し、安倍国道を初めてする七人の陰陽師を召し、占いを命じた。

「以前にも占ったものを又占うのか」と、国道の陰陽道の意地が絡まり、占う、いや占わないと新たな問題が提起され、御所地選定は揉めにもめた。安倍国道は、都より下ってきた貴族陰陽師であった。

 更に更に奈良興福寺の僧であった珍誉ちんよが、若宮大路は、四神相応の優れた地であると進言した。

 平安京遷都にも採用された中国からの風水学による四神相応である。

 そもそも四神とは、東西南北を守護する聖なる神のこと。東に青龍(河)、西に白虎(大道)、南に朱雀(平野や海)、北に玄武(山)があれば吉相とされた。

 若宮大路の西には便のよい大道の今小路、東には豊かな流れの滑川、北には山を背にした鶴岡八幡宮があり、南の由比の浦は広大な視界が開けた海だ。現代では、鎌倉の西の白虎は、東海道だといわれる。そもそも頼朝が、鎌倉幕府をこの地に作るにあたり、京都に習って四神信仰を取り入れているのだから、新御所の場所でそんなに揉める必要はなかったのではないか。

 ともあれ、新御所の場所は、若宮大路と決まった。

 次には、今年にするか来年にするかと御所の工事を始める時期について右往左往する。

 ようよう、今年中に行われると審議決定された。

 十一月に新御所の木作始きづくりはじめが行われ、十二月初旬に棟上、半ば過ぎには宅鎮祭とつつがなく執り行われ、ようよう年の暮れに八歳の将軍は新御所に移った。

 この騒動の裏で、恨みの種が生まれた。

 前もって、木材を集めた丸太屋なる商人を、羨望、妬み、謂れのない恨みが囲んだ。


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