第18話 六月の離愁
鎌倉の憂鬱を深め、ぼそぼそと雨が降る。
前浜も灰色に煙り、六月とも思えない寒さだ。時たま晴れても鬱陶しい日々だ。
薄日の中を馬が数頭、若宮大路を下って来た。浜辺に乗り入れ、飛沫を上げて疾駆する。従う騎馬も若い乗り手を振り落とさぬばかりに暴れた。
小さな晴れ間に、慌てて仕事を済ませた漁民を蹴散らして、小高い岬を駆けあがる。
現在の極楽寺の辺りだが、今はまだ地獄谷と呼ばれる死体遺棄場所だ。
倒れた老爺を見向きもせず、死に急ぎ地獄へ向かう若者らを久々の陽が貫いた。
起き上がれない老爺に、わらわらと漁民が集まった。
「爺、大丈夫か」
「あれは、誰だ」
「武蔵二郎さま、執権さまのご二男だ」
「如何に慈悲深い北条執権さまでも、あんな倅を放っていては‥‥」
「あの若さまの家人を知っている。おらが、宋銭を数枚でも‥‥‥」
先頭の若侍は北条時実。元服も済み正室も迎えているが、まだ十六。
執権北条泰時の二男として、生まれた時からの若さま暮らしだ。
まだままごとのような室との生活は、天気晴ればれの日のみ可能だ。
何が気に入らぬのか、口もきかない妻の顔を覗き込めば、雨の庭に目が泳ぐ。
「まったく赤子だ」と思う時実も大人になるのは、まだまだ先の話のはずだった。
十八日、今日も雨に振り込まれているが、多くの御家人が集まっていた。
明日の丈六堂の供養の準備のためだ。
「出会え、出会え。惨事でござる」
「北条の若君が、殺された」
「何と? 誰が? 誰を?」
右往左往、騒ぎ立てる御家人どもが駆け付けた先で、数人の若者が血を流し雨に打たれていた。
血刀を右手に、両肩を震えさせる侍を伊東家の郎党が生け捕った。
惨殺された若侍は、刻の執権北条泰時の二男時実であった。ひときわ目立つ出で立ちは、雨に濡れ、まだ幼さの残る顔立ちは、彩を失い、すでにこと切れていた。
生け捕られた男は、なんと時実の家人だという。
如何なる仕儀か、分からぬままに腰越で斬刑された。
丈六堂の供養は延期された。
この供養の結縁のため、京の六波羅を出発していた北条時氏が、途中で惨事を聞き、激しく鞭を鳴らし急ぎに急いで鎌倉に到着したが、すべてが終わった後だった。
時氏は北条泰時の嫡男、時実の兄である。
家族愛に恵まれぬ時氏は、泰時の幼時の頃を彷彿とさせる。
十歳の頃に、「母上だ」と紹介された女人には、大人しく頭を下げたが、別に嬉しくもない。
だが、翌年赤子が生まれた。
「弟君でございます」
「おれの弟。おれの兄弟?」
敷物の中の赤い顔をこわごわ覗き込んだ。
「若君さま、可愛がってくださいませ」
時氏は、去年来た母上の目を確り見つめ、激しく首を縦に振った。
見知らぬ女人が、見たこともない笑顔をこぼし、赤子を通じて時氏の母にもなってくれた。
やんちゃ坊主が、育っていく。
「うわぁ~~ん」
覚束ない脚をはげまし、兄を追い、顔から先に盛大に転び大泣き。
ぶっくりとした頬に、涙を滴らせ、しがみついてくる幼児を抱きしめ、その温かさを楽しんでしまう。かって味わったことのない満足感に、頬が緩む。
「まあまあ、如何したというのです」
「あっ、母上さま。申し訳ございません」
「そなたが謝ることはありません。どうせやんちゃ坊主のわがままでしょう」
「ははうぇ‥‥‥」
母の優しさに、少し声が震えた。
「ささ、こちらに」
差し出された母の手を払いのけ、兄の首にしがみ付く。
この児を守ってやらねばと思った時氏であった。
その弟が死んだという。
もし、わしが傍にいれば、こんな惨事は防げたのではないか。父上は何をしておられた。
政務に忙しいのは、承知しているが、傍にいる息子の生業を見過ごしていたのか。
清廉潔白、真面目で誠実と評判が良く、民を心配する名執権といわれるが、その心配や愛情は家族までは及ばないのか。それは単なる力不足か。
時氏は、父に会いたいとも思わなかった。
この三年後六月、父親を置き去りにするように時氏も病死する。
誰でも、多くの人と死に別れるが、泰時の場合は、みな、六月に去って行く。
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