第17話 泰時の恋

 米がない、飢饉だと騒いでいるのに、今日の宿と決めた豪農の家の膳は、それなりの馳走が乗っていた。残してはかえってまずかろうと腹に詰め込んだ。

 忙しない毎日の末の遠出で、少し疲れた。

 早めに寝屋に引っ込んだ。寝床の準備は整っていて、泰時をおいでと誘う。

 倒れ込んで、「むむむぅ」

 たちまち夢に落ちた。


 物成りが悪く青息吐息の相州を更なる嵐が襲った。台風が荒れ狂い、飢饉の声は誰もの耳に届いた。

 そんな中、若き将軍頼家は政務を見向きもせず、蹴鞠けまりに夢中だ。

 都から師匠を招き蹴鞠三昧、その後には豪華な宴席を催し騒いだ。頼家に侍るのは乳母の比企一族を初めとする若い者だ。

 これを見過ごすことが出来なくなった泰時が、近習を通じて諫言した。

 頼家二十歳、泰時十九歳の秋であった。

 当然のことながら、将軍の勘気に触れた。如何に咎めるかと思案しつつ、頼家は烈火のごとく蹴鞠を投げた。

 蹴鞠が飛んでくる。一つではない。泰時めがけて三つ四つと武器さながら。

 蹴った飛んだ、手で受けて投げ返す。

 比企の一族を従えた頼家が、あざけりの顔を破顔一笑。

 黒い口腔がもくもくと拡がり、泰時を巻き上げ辺りを席巻した。


 誰かが、遣戸をそっと開けた。

 夢だもの、恐れることはない。慌ててはみっともないぞ。

 穏やかな匂いというものがあるだろうか。

 飯の炊ける匂い。

 春を告げる草木の香り。

 人それぞれの、生まれ持った匂い。

 男とは違う女の香り。

 ああ、そうだ。これは女の匂いだ。

 泰時は、がばっと起きた。

「お許しくださいませ。若さま」

「な、何だ? なんのようだ」

「はい、夜伽よとぎをせよと、父が‥‥‥」

「不要だ。さがれ」

「お願いでございます。このまま帰っては、叱られます」

 震える女子に、面倒になった泰時は、背を向けた。

 女子の側の敷物が少し空いた。

 しばしの後、女の香りが滑り込んだ。

 泰時の背中が目になった。

 やがて、若い手が動き、つられて足が動けば、穏やかな香りも色濃く悶え、行く着く先は極楽。


 綿帽子を被ってキラキラ輝く富士山は、郷の女子らの憧れ。何時かきっと、吾も嫁ぎ行くのだと。しかし、誰も北条の若さまに嫁ごうなどと畏れ多いことは思わない。

 田舎の若い女子に野心はないが、憧れは一人前。

 狩野川の河原を行く若い女子は、遅れがちな歩を励まして少し前の男を追う。

 男は、振り向いてもくれぬが、誠実と慈悲の心がにじみ出て、後行く女子を包んでいる。

 供侍と屋敷の下男は、一町も後ろを歩いている。もっと後ろ、もっと離れろと追いやられ、川面のきらめきに、目を細めながら、ご主人さまの姿を失うまいと必死だ。

 何と穏やかで、美しい景色か。

 旱魃で、荒れ果てた野山も来春の萌芽を抱きながら若い二人に微笑む。

 明日は、別れの二人だが、今を大事にかちを拾う。

 女子の右手がそっと動いた。細帯の下に手を当て、こぼれてしまう微笑みに俯いた。

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