第二章 泰時の御成敗

第13話 泰時の朝

 鎌倉の陽の出は、いくらか遅い。東の小山が意地悪するからだ。

 三方を小高い山に囲まれた要塞の中心に位置する屋敷は、静かに陽の出を待っている。

 小山の頂から朝陽を追って、野鳥がツーピ、ツーピー、チチチッと挨拶に来るが、待つことなく厨と争うように床を離れて動き出す男は北条泰時。

 鎌倉幕府を率いる第三代執権だ。

 朝霧を追い払うように井戸端に出る。

 冷たい水で顔を洗い、歯木を使って丁寧に歯を磨く。

 その後、白湯を大ぶりの椀で一杯飲み、己の体内の様子を探る。

「うん、今日も元気だな」と己を褒め、文机に向かう。

 質実剛健・真面目なお方という評判通りに、背筋を正し一寸ほど頭頂を天に近づけて冊子を紐解けば誰にも邪魔されない泰時の貴重な刻が静かに流れる。


 読み入っていた冊子を閉じようかという頃、大きな椀の載った折敷が届く。

 椀を取り上げ、酷使した目を労わるように閉じる。青緑に貫入が入った宋渡りの椀の持ち重りを確かめ、ゆっくりと茶を味わう。

 贅沢など微塵もしない泰時だが、茶はまだまだ贅沢品だ。

 しかし、一杯の茶は薬である。西国からの下り品を毎日喫する。

 三代将軍、源実朝の師匠であった栄西が著した『喫茶養生記』は、 茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれている。

 結構酒飲みだった実朝を心配して、書かれたともいわれる。

 尼将軍と讃えられた伯母の北条政子の弔いの数々がひと段落して、やっと一杯の茶を愛でる刻が戻って来た。

 机の上の一冊は『裁判至要抄』。

 鎌倉初期の勅撰法律書で、土地所有権,相続,売買貸借法等,民事的規定などである。

 読んで楽しいというものでもないが、武家社会を公正な裁判で治めようとする泰時にとって貴重な指南書であった。

 この目安を見ることを近頃の日課としている。

 執権としての仕事が始まってしまえば、息つく暇もないくらい忙しい。

 心して、毎日『裁判至要抄』に挑んだ。

 東国武家社会には、溢れるほどの裁判沙汰起こっている。きっちりとした成文法を定め、公正な裁判を行わなければならない。

 伯母の北条政子に先立ち、亡くなってしまった大江広元が傍にいてくれたなら、どんなに心強かったことだろうと毎朝思ってしまったが、それも思わなくなり、心静かに文机に向かう。

 文机の上には、先端を焼いた墨筆を置き、反古紙に備忘を取ることもある。


 京都時代に明法道みょうぼうどうの家柄である中原氏の養子に入り明法道を学んだ大江広元が紹介してくれた『裁判至要抄』は、鎌倉武士の成敗書として確立しようとしている式目の参考として需要な物で、頭の冴えている早朝の時間に学ぶのが適切だ。

 やらなければ成らないことが溢れている泰時には、座禅を組むほどに心静まる一時だ。

 明法道とは、中国を中心とする東アジア世界で行われた政治制度。

 律は刑法、令はそれ以外の行政上必要な諸法規の集成で、日本の律令制は、隋・唐の律令の法体系を移入し、それをもとに形成されたもので、七世紀後半に成立した。

 古代日本の律令制の元で設置された大学寮において、律令法(法学)を講義した学科だ。

 平安時代末期に大学寮が廃されると、学科としての明法道の実質は消滅して、博士が私塾を開いて律令を講義するようになった。

 その一方で、いわゆる公家法が形成されるようになると、明法家の法解釈や明法勘文が必要とされ、明法博士などの明法家が院評定や院文殿での訴訟の審理に参加するようになった。

 もし、この明法勘文に齟齬があると当人ばかりではなく、家業にも係わる。

 子孫が不適切な鑑定を行わないように、いわば虎の巻として作成されたのが『法曹ほつそう至要抄』だ。

 それを修正加筆したものが、『裁判至要抄』。

 後鳥羽院の命により、坂上明基が記録所で働く者の為に著した雛型集である。

 そして、坂上家と共に明法道を家業とする中原家に養子に入って明法道を学んだ大江広元が鎌倉に下り、幕府創設に深く関与した。

 泰時に『裁判至要抄』を残し、『御成敗式目』制定に大きな役割を果たしたのだ。


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