第11話 往生
とうとう、あの丸々と肥えた女子からの便りはなかった。
伊賀が誠に風邪を拗らせて身罷ったのか、それとも何かの障りがあったのか、分からない。
今となっては、どちらでも良い。
執権となった泰時の評判は、すこぶる良い。
尼将軍としての己の目に間違いはなかったと思う。
倹約を遂行する一方、貧しい下々の者たちに目をかけ、布施米を施した。
その政策に不満がある訳ではないが、政子から見ると良すぎるのだ。
難しい幕府運営を共に歩んだ弟義時の倅で、北条の血が確かに流れている漢だ。
近頃はお公家のための律令制度を見直し、武家のための制度を作ろうと勉学に励んでいるようだ。
政子の息子たちに比べると、その文武は優れているといわざるをえない。政子は、もうやる事がない。なぜだか、ため息が出てしまう。
嘉禄元年(一二二五)五月二十九日政子は病んだ。
御堂御所と呼ばれる
病気快癒の為の祈祷が陰陽師により大々的にとり行われた。
翌日には、幾らか持ち直したが、祈祷は重ねて行われた。もちろん執権北条泰時の命である。
高僧も加わって、
床に付く政子を打ちのめす報せが届いた。今では、ただ一人残る政子の理解者である大江広元が死んだのだ。七十八歳であった。
昔は朝廷に仕える下級官人だったが、都では己の能力を発揮することが出来ぬと見切り、鎌倉に下って源頼朝の側近となった。
鎌倉幕府及び公文所の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。
初めの頃は、如何に優秀であろうと都人ゆえ、政子は好きではなかった。しかし、長年の幕府を支える姿勢は、身内の人々を失った政子にとってかけがえのない人物となった。
何もかも知りながら、幕府を支え、政子を支えてくれた。
身罷っても可笑しくはない年齢だか、病床の政子には殊の外の痛手となった。
「かかさま、かかさま」
屋敷の裏手の緑をぬって赤い衣が
大姫だ。
まあ、あんなに駆けて転ぶではないかと手を差し出せば、小さな影が立って前方を塞ぐ。
白地に若竹色の縦横模様が清々しい狩衣を纏ったまだ前髪の少年だ。
衣の鮮やかな模様が目を引くが、顔は
それでも政子には、誰だか分かる。
人質として木曽義仲から預かった少年だ。すでに大姫とは許嫁の仲だ。
*
「オニィー」
大姫が父親頼朝にいい放った。
義仲を討伐した頼朝が、逃げ出した年端もいかない人質を追い殺させた。
そう、頼朝も「鬼」となった。
あの時、明るく健やかだった大姫の目が死んでしまった。
憎しみに満ちた頼家の目。哀しみに満ちた実朝の目。
瞑目した政子を呪いを宿した一つ目百鬼が、ずううんずうんと迫り来る。
その中に、夫頼朝の冷たい目があるのが許せない。
右手の後ろに、小さな目。大姫にちがいない。
そっと、右手を差し出し、手の平に載せた。こそばゆいと目が笑う。
まるで慈悲深い千手観音の手の平だ。
千など思いも及ばない。
たった一つ、母親と娘の合作だ。
いよいよ枕が上がらなくなった政子の世話をする女房たちに異変が起きた。
心労から体調を崩し寝込む者が相次いだ。中には、命を縮める者も出た。
年いった女房が多いのだから、特段のことでもないが、伊賀の方の呪いだという噂が密かに舞った。
その噂を知ってか知らずか、発熱する力も痛みに震える力も失った政子は、穏やかに眠るようにその愛憎の生涯を閉じた。
七月十一日晴天。
享年六十九歳。
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