第10話 絶息


 あの日、恋する泰時の屋敷に走った。泰時の為と思えばこそだ。そこに、己の先行きに対する打算など微塵もなかった。(行け)という声に導かれて、恐れもなく一人闇夜の鎌倉の町を走った。

 これから三条が為遂げようとする行為も、泰時の為だ。

 あの尼将軍が泰時を執権にした。ならば、尼さまの命令も当然泰時の為になるのだ。

 生涯の恋情を完結させよう。

 生きた証に、己の命を恋した男に捧げよう。

 三条が決心すると柔い白角はグングンと伸び、固さを増して両目を左右に押し上げた。唇も耳たぶに向かって十分に拡がった。きっと政子の鬼が乗り移ったのだ。

 宝冠を被った鬼女が生まれ、胸元の小さな包みの鍵を開いた。

 コホン、コホンと伊賀の禅尼が、せき込んでいる。十二月に入り、伊豆の山々も底冷し、霊峰富士の山は、すっかり白化粧をすませている。

「おまるを使って下さいませ」と頼んでも、這ってでも厠に行きたがる伊賀の方を背負う三条。

 食は進まず、水さえも望まぬ口に、水を浸した布を丹念に運ぶ。

 女主が食べなければ、三条も食べない。丸みを捨てた身体は、内へ内へと凹んでいく。目は落ち窪み、頬はこけ、首筋は筋だち、生きながらに身内の小さな髑髏しゃれこうべを伺わせた。

 いよいよ、床を離れられなくなった伊賀の方のお下の世話をするのも、もちろん三条だった。


 三条は、片時も女主の傍を離れなくなり、周りの者の涙を誘った。

「お方さまは、もう難しゅうございますなぁ」

「三条どのは、禅尼さまと一緒に行かれるおつもりか」

「それも、お仕えする吾等の誠でございますれば、何やら羨ましいような」

 口さがない女房たちの囁きが、日を追うごとに伊賀の禅尼の寝所を囲んだ。

 誰もが諦めた囁きに、今更、戻ることも叶わないと悟ったか、暮れも押し詰まった二十七日未明、伊賀は身罷った。

 この伊豆に押し込められてから、まだ四月よつきだった。


 結句、あの丸々肥えた女子から便りは届かなかった。一度もだ。

 しかし、年が押し詰まった二十四日、強い西風に乗って飛脚便が届いた。月初めに風邪を引いた伊賀の禅尼が危篤だという知らせだ。

「伊豆の郷とはいえ、もう寒いからのう」

「何か、よくない知らせでございますか」

「伊賀の禅尼の病が芳しくないようだ。さて、快癒の経でも唱えようか」

 足元も覚束なく、御堂に入った。南無、ナム、南無。


 二三にさん日も経たぬ間に、伊賀の禅尼が儚くなったと北条館から報せが届いた。

 お世話がいき届かず、申し訳なかったと館の管理人は、詫びていた。

 思わず漏れ出す笑みを、目頭を押さえて押し戻した。

 左手の数珠を掲げ、右手を添えて音高く揉みしだいた。

 離れた場所に侍る女房にも見えて、確りと哀しみが伝わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る