第9話 鬼女

 

 伊豆の北条館は、緑の中に眠っていた。

 西側に流れる川は、ひねもすキラキラと冬陽を躍らせている。

 一人、河原の傍まで忍び出た三条は、うつらうつらしてしまう。

「少し、散策など致しましょう」と誘った女主は、小さく首を振り「お前が、気晴らししたいのであろう。行っておいで、妾は川など見とうない」と頑なだ。

 三条は、ここ北条館に着いてから毎夜眠れぬ夜を過ごしている。


 政子に便りを書かねばならないのだが、三条の筆は進まない。文机に向かい墨をするとこめかみ辺りから痛みが立ち上り、筆を持つと指先が震えた。

「間違いなく、伊豆へお供せよ。よいな」

「そしてな、伊賀の物言い振る舞いをこの尼に知らせよ」

 政子の密やかな声が胸の奥から頭をもたげる。両肩を押さえつけられるような感覚に目眩めまいを覚える。急がねばならない。

 伊賀の禅尼が、風邪を召され臥せっているのだ。

 三条は、実行せねばならない。政子からの依頼を決行する時なのだ。げっそりと衰えた身体の胸元に収めた小さな秘密を支えることが出来なくなった。


(これはな、薬師くすしが作ったの薬じゃ。安眠は健やかに過ごす元になる。伊賀が風邪などひいた時は、少しずつ朝晩与えよ。貴重な薬じゃ。そなたが盗み飲んではならんぞ。よいな)

 まるで隣の部屋からのように政子の声がはっきりと聞こえる。

 あの時、政子は三条の左肩にそっと手を添え、鍵をかけたように厳重に畳まれた赤い包を胸元に押し込んだ。それは重く胸を押さえつけ、三条の息を止めた。

 何で否やと反論できよう。三条は頷くしかなかったのだ。

 あれから三条の心は、千路に乱れた。政子の密命に慄いた。

 何とか、伊豆の北条館に落ち着いた頃、夜な夜な菩薩かとも思える妖艶な女にまとわりつかれ、左耳の脇辺りをそろりと舐められる。

 夢であった。

 夢と分かっていても、恐ろしく何度も目覚めては左耳を押さえてしまう。やがてそこに丸い跡が残った。鬼舐頭きしとう、今でいう円形脱毛症だ。

 昼間はまだいい。何とか隠しおおせる場所ではあったから、周りの者に気付かれることもなく、何やかやと仕事もあり、忘れてしまう。しかし夜は辛い。いまだに毎夜、怪しげな女に左耳から押さえつけられ、のたうち回り、三条は二十年蓄えた丸みを徐々に失っていった。

 毒薬を使って人を殺した者は、絞首刑。売買した者は、流刑と聞いたことがある。八つ裂きにされ、業火に炙られるのだ。それも地獄という名のあの世であれば、終わることのない営みとなろう。

「嫌じゃ」

 それは嫌だと思わず声が出てしまう。もう終わりにしてほしい。あの世など行きたくはない。死にたくないというのではない。夜毎の責め苦に打ちのめされたしばし後、とろとろと眠りに落ちるのは愛しい刻だ。

 貧乏公家の娘であった三条は、幼い頃に母に手をひかれ何処へやら行き、「南無阿弥陀仏」と唱えた記憶があるが、このまま目覚めなくともよい。何時かは行くのだと決めていた極楽浄土も望まない。薄墨色の雲の中に意識のないままに永遠の眠りにつきたい。

 いや、そうではない。山野の木々が朽ち果てるように、何の痕跡もなく風に吹かれて消えてしまいたい。

 戸惑っていてはいけない。

 伊賀の禅尼の風邪は快方に向かっているではないか。

 三条の左耳に隠した白い艶々した円形から少しずつ角が育った。


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