第7話 追憶

  北条政村は、第二代執権北条義時の五番目の子供として生まれたが通称四郎であった。兄にあたる四番目の子供の母親が義時の側室で身分が低いため、六郎と呼ばれた。

 父親の義時は、四郎を溺愛した。

 周りに侍る者共も「鍾愛しょうあいの若君」と呼びへつらい甘やかした。九歳で、時の将軍源実朝の館で、元服した。烏帽子親は、父に次ぐ有力御家人の三浦義村で「村」の一字を与えられ政村となった。

 有力な後見を持つ政村は、心身ともに豊かな環境で成長した。

「四郎さま、四郎さまは、なぜ四郎さまと呼ばれるかご存知でございますか」

「うーん、四番目に生まれたから……」

「いえ、いえ、四郎さまは、六番目にお生まれの若さまでございます」

「ふーん……」

「父上の義時さまは、小四郎さまと呼ばれました。おじいさまの時政さまは、四郎さまでございます。お二人は、ともに執権職に就き、この鎌倉を支配して参ったのでございます。お分かりでございますか、若さまもその名の通り大きくなりましたなら執権さまになられ、幕府を統べるのでございますよ」

 若君を喜ばせようとのお世辞ならまだしも、それらは己の出世をも鑑みた真面目な物いいで、真剣そのものであった。日ごとに繰り替えされれば、将来は執権になるのだと自然に思った四郎を誰が咎めだて出来よう。


 お家自慢の伊賀だが、天皇家の家政機関である蔵人所に代々使えた官人の出身であった。

 書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱った。

 祖父の朝光が伊賀守に任じられて以降、伊賀氏を称したが、その前は、藤原姓だ。

 伊賀が北条義時の後室に迎えられ、義時がやがて二代目執権となってからは、兄弟は外戚として活躍する。

 長兄の光季みつすえは承久三年(一二二一)の承久の乱で京方の襲撃を受けて自害した。

 当時、京都守護職として京都にあった光季は、倒幕の兵を挙げた後鳥羽上皇の招聘に応じず、「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。

 再度の誘いにも「面勅すべし、来れ」と叫び、「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」といって行かなかった。このため、官軍によって高辻京極にあった宿所を襲撃され、息子の光綱と共に自害を余儀なくされた。

 在京の御家人が天皇方に味方するなか、幕府の人間として立派に死んだ。

 伊賀がその知らせを聞いたのは、乱が収まってからだが、涙が止まらなかった。

 しかし、その後の一族は更に重要された。


 機嫌の悪い相模湾から意地悪な風が吹き付け、伊賀の輿がふら付く。

 目を瞑る伊賀に政村の幼い笑い声が蘇る。

 晴天の舟遊びの何と楽しかったことか。

 のっぺりと細やかに拡がる鎌倉の海と違い、直ぐ隣の三浦の海は野趣に富み舟遊びには最適といえた。管弦の船が幟を翻し、後を追って来る。

 漁師の小舟から若い裸の男たちが、ドボンとあっけなく海に飛び込む。

 政村は、両親から離れ身を乗り出して飛び込みそうな身振りだ。

 たちまち海底から鮑を獲って浮かび上がった若者が、政村の船端に届けに来る。

 幼い子は、おっかなびっくり手を伸ばし、にゅっと動く初めて見る生き物に指先で触ってみるが、慌てて指を引っ込める。船上は、どっと歓喜に包まれた。父義時が声高に笑い、母伊賀が扇で口元を隠しながら目で笑う。両親を見上げる政村は、父上に飛びつこうか、母上に飛びつこうかと迷いながら顔いっぱいに笑ってみせた。

 幸豊な三浦の海を堪能した。


 ああ、三浦義村め、裏切り者め。

 烏帽子を売ったな。政村の「村」は、三浦義村で「村」だ。今となっては、悔しくてならない。

 執権義時の室としての華やかな生活が走馬灯となって、伊賀の輿を追いかける。



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