第5話 密命

 三条の報告は、取り上げられたのだ。

 尼将軍の鮮やかにも穏やかな鬼働きであった。


 年老いて、すべてが穏やかになったのだろうか。

「まあ、よい。いいたくなければいわずともよい。泰時どのは、優しいからのう。憎からず思おていたのであろう」

 三条の内から、その昔育んだ熱の塊が飛沫を上げてあふれ出た。隠しようのない春情が頬を染める。

 政子は、納得の笑みを隠し、誰も留め立てできない威厳のある声を発した。

「間もなく、伊賀は伊豆へ下向する。お前も同行するのであろう」

「はっ、はい」

 としか答えらない。なんで、分かりませんなどと答えられよう。

「間違いなく、伊豆へお供せよ。よいな」

「…… はい」

「そしてな、伊賀の物言いや振る舞いをこの尼に知らせよ」

「…… はい。‥‥‥ 承知いたしました」

「心配するな。遠国へ流されるのではない。伊豆の北条館ほうじょうのたちへ行くのじゃ。粗略に扱わぬよう、ようゆうておこう。骨休めに行くつもりで、供をすればよい。近場に温泉があるぞえ、楽しむが良い」

「はい、有難きお心使い。きっとお方さまにもお伝えしまする」

「それからな……」

 まるで長年親しんだ主従のように政子の顔が寄せられた。歯の落ちた隙間から密かに零れる言葉に、呼吸を失った三条の身体が再び震え出した。

 骨ばった小さな手が、丸い三条の肩を掴み、引き寄せる。白さを忘れた白目に沈む瞳から狂気が放たれた。

「心配いたすな。先々は、この尼に仕えよ。いやいや、頃合いの御家人に嫁げばよい。きっと心優しい漢を見つけて進ぜよう。それとも執権どのとなられた泰時どのに仕えるか。うんうん、それもよかろう」

 心拍数を上げた政子の言の葉は、滑らかさを失い、少しだけ裏返った。

 度を失った三条を下がらせた政子は、ニョキニョキ成長する角を何とか隠し、胸のつかえを吐き出すように一心に無音の経を唱えた。

 老いに鞭打って成し遂げた政子最後の鬼働きであった。

 いやいや、或いは最初の鬼働きかもしれない。息子殺しと謗られて、かっと殺意が沸いたのだ。

 政子の鬼働きは、何時から始まったのか。夫、頼朝の死からかもしれない。浮気者だった夫を彼の世へ追いやった。さもありなん、政子は焼餅焼きで、愛妾亀の舞を後妻うわなり打ちする騒動を起こしている。

 後妻打ちは、平安時代の末頃から見られる風習。離縁になった前妻が後妻にいやがらせをする行動だ。別れた夫の寵愛をほしいままにしている新しい妻をねたむあまり,憤慨してその同志的な婦人らとともに後妻のところへ押寄せていく。一方,後妻のほうでも,その仲間の女性たちを集めて応戦した。武器としてはなどの家庭用の道具が用いられた。眺める人々の笑いを誘った。

 政子の場合は、本妻が側妾そばめに嫌がらせをした例だが、可笑しみはなく、女権力者は家来に嫌がらせを命じた。本当の権力者である将軍頼朝に激怒された者は、髷をはねられるは、流罪になるはと大騒動に発展した。


 さて、政子は何時、母性を返上したのか。誰にお返ししたのか。腹を痛めた息子を二人とも見捨てたとの噂は、政子を苦しめはしなかったのか。

 愛していた。

 頼家も実朝も。愛が暴走して、迷路に堕ちたのだ。

 母性と引き換えに、政子が得た物は何だったのか。世にいう武家社会の確立であったのか。権力への執着であったのか。すべて間違ってはいないであろう。自覚もないまま、流されたともいえよう。気が付けば、妨げる者をすべて排除して、権力の褥に座っていた。

 鬼が降って来て政子を占領したのか、そうでは無いだろう。政子が泥水を飲み炭火を被って身を捩り、月満ちてその子宮から鬼を生み落としたのだ。


 狼狽うろたえている三条は、どのようにして伊賀が眠る部屋に戻ったのか覚えていない。

 沈むと分かっている船にいつまでも乗っていては、危ない。身寄りのないこの鎌倉で、自分の身は自分で守らねばならない。女の身なら猶更だ。有力御家人の三浦義村でさえ、情勢不利と見極めると伊賀の一族をいとも簡単に裏切ったではないか。常に勝者に付く変わり身の早さは、痴れ者といわれようとあっ晴れである。見習わなければいけない。

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