第2話 激怒

 闇に仰け反った伊賀は、庭を転がった。

 六十八歳の老尼が裾を割って階を飛び、伊賀の身体を足蹴にしたのだ。

 老尼の身体も三条の顔の前でぐらりと落下した。思わず両手を伸ばし、抱き留めた三条の頬にそそけ立った素足の踵がし掛かる。

 老いた心の底に生じたひび割れが、ゆるゆると下り、その踵に発露したのか。

 伊賀が叫んだ夫とは初代将軍源頼朝みなもとのよりともであり、二人の息子とは二代将軍頼家よりいえ、さらに三代目の実朝さねとものことである。老尼は、いうまでもなく尼将軍と呼ばれる北条政子。伊豆の田舎豪族の娘から当代一の地位に上りつめた女人であった。

 伊賀が心配する四郎とは、伊賀が政子の弟である執権義時との間に儲けた北条政村まさむらである。


 鎌倉は、各地の噂の吹き溜まりだ。

 三方を山に囲まれた鎌倉は、多くの谷戸やとを抱え、じっとりと湿っているようで、南に開けた大海原に向かって、溜まった鬱屈を吹き飛ばす力がある。

 溜まった噂とは、入念に企てられた陰謀に他ならない。昨日の血潮の匂いを吐き出し、今日も素知らぬ顔で、同じ争いを繰り返した。

 此度の騒動も二十年前、政子の実父北条時政ときまさとその後妻牧方まきのかたの陰謀と酷似している。

 後妻の欲望に引き回された時政が、身内の者を将軍に仕立て鎌倉政権を伺ったのだ。瞬く間に、問題の二人は伊豆に押し込まれた。

 その始末を付けたのも政子であった。

 誰かが死ねば、噂が巻き起こる。人前で、切り殺されたならば、乙が甲を殺したと明白だ。いやいや、そうでもない。その黒幕が誰かと、やっぱり噂が立ち上る。

 鎌倉人に限らず、人々は噂が好きであった。金のかからぬ娯楽といえる。

 もちろん、大枚叩たいまいはたいて噂を集める金持ちもいる。己が撒いた噂の結果を収集する輩もいるだろう。噂と陰謀は、裏表の関係でもあった。

 警護の人々の面前で、その首を盗られた実朝も、殺したのは甥の公暁くぎょうだが、その公暁も討ち取られ、跡には噂の嵐が吹き荒れた。誰が公暁を操ったのか、上から下まで数限りない人々が「あいつだ、こいつだ」と噂しあった。

 肥大した噂は、鎌倉中はいうに及ばず、京の朝廷内をも駆け巡り、実朝殺害は実の母親の策謀だという胸苦しい噂に行きついた。

 鶴岡八幡宮鳥居前の高札に上がらなくとも、政子もその噂を知っているはずだ。

 だからこそ、政子の怒りは頂点に達し、虚空を飛んだのだ。

 老尼は、抱き留められたことなど無かったように、素早い動きで伊賀を追い、胸倉をつかむと平手打ちを浴びせた。

 怒りを爆発させた一発、幾らか息継ぎの後の二発目、そして年老いて勢いをなくした三つ目が伊賀の顔を左右に揺らした。

「己が夫を殺しているから、その様な偽りがいえるのだ。許さぬぞ」

 老尼の怒りに満ちた息遣いが伊賀の顔に降り注いだ。

 枯れていく息遣いは、怒りが収まったしるしではない。単なる息切れだ。

 伊賀の夫義時にも、愛妾に毒殺されたのだという噂が立ち始めていた。時に火のない所にも煙が立つのが、この鎌倉だ。

 声も出ない伊賀は、いやいやと恐ろし気に首を振ったが、そのまま気を失った。

 すべてが闇夜の影絵のように現実感のない緩慢な所作であった。

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