吾妻鏡欄外 それからの鎌倉

千聚

第一章 政子の鬼働き

第1話 懇願

 遠く海風が泣いている。夏の名残を引き摺った未練気な悲鳴だ。

 このままでは成るまい。まだ出来ることがあるはずだ。

 伊賀いがは、突然の思いに押されて鎌倉の夜闇に迷い出た。

 供は三条さんじょうという名の女房一人。ころころと丸みを帯びた身体で女主の後を追う。

 暦では、八月末だが、今年は七月が二度あり、夜風は早や冷え込んでいた。

 今しがた曲がったばかりの若宮大路の樹々を揺らして、由比ヶ浜の方角から、潮騒を押し退けて男どもの騒ぐ声が飛んで来た。

 旗指物を揺らし、甲冑姿の御家人の顔は、酒に浮かれたように茹で上がっていた。

「お方さま、何やら騒ぎが起こっているようでござります」

「……」

「お方さま、危のうございます。今夜はお屋敷にお戻り下されませ」

 伊賀は、聞こえないのか返答はない。

「明日の昼間でもお訪ねすれば宜しいかと……」

「静かにいたせ。何としても今夜中にお会いしたいのじゃ」

 必死の面持ちの伊賀は、ほんの先頃までは、鎌倉で権勢誇る執権の後内室さまであった。

 夫を喪うと、華やぎは瞬く間に失われた。

 着慣れぬ青鈍色の尼装束の背が、道端の名もない草花のように頼りない。

 その昔、藤原氏に連なるというお里自慢の姫君で、色白であか抜けていた。しかつめ顔の公の席でも咲き零れるほどの華やかさを隠せずにいた。

 権勢の子を産み、胸を張って鎌倉の栄華を生きた。兄弟も要職に就き、伊賀一族は栄えた。

 それらを全て失い、彩を忘れた闇に向かって押し流がされていく。


 元執権の室という権威で、二人は何とか門を通過した。

二位にいさまにお目通り願います。伊賀でございます。伊賀でございます」

 必死の思いの表れか、びっくりするほどの大きな声が闇夜に響いた。

 何時もなら寝静まっている館も今夜は人の気配がして、灯りも点っている。御家人どもが騒いでいるからだろう。

「どなたさまじゃ。この夜更けに」

「伊賀でございます。執権の殿が亡くなり、今は禅尼でございます。二位さまにお目通りをお願い申し上げます」

「二位どのは、すでにお休みじゃ。明日になされませ」

「どうぞ、哀れと思召され、今夜のうちにお目通りを」

「二位どのを起こせと申すか。無体なことを申されるな」

 取次に出た女房の声は、つい先ごろの敬いを失っていた。

 しばしの静寂しじまの中、廊下の奥からふらりゆらりと灯りが近づいてくる。

「伊賀どのか、この夜更けに何事か」

 暗いあの世からかと疑いたくなる枯れた声が廊下を這う。

 ぼんやりと着慣れた尼姿が湧き出た。

「…… あっ、二位さま、伊賀でございます」

「分かっておる。何用か聞いておるのじゃ。はよ、用件をいいなされ」

わらわと伊賀の一族は、流罪と決まりました。誠でございましょうか」

 立ったままの老尼に、伊賀は声を震わせる。

「そのようだの。改めて聞かれても、せん無いことよ」

 ゆるりと片膝座りした尼は、ため息を隠しもせずにいい放った。

 伊賀は、廊下に招かれることなく、きざはしのある前庭に膝を付いている。

「覚悟は出来ております。妾がお訪ねしたのは、他でもない陸奥むつ四郎しろうのことでございます」

「四郎も流罪にせよというのか」

「とんでもございません。四郎は、四郎は何ら関わりないことにて、今後の四郎の処遇についてお願い申し上げます」

「四郎が関わりないなら、四郎の心配をすることはなかろう」

「妾の一族が居なくなった鎌倉で、四郎の命を狙う者があるという噂もございます」

「心配いたすな。関わりのない者が命を狙われることなぞ、なかろうよ」

「きっと、きっと…… 二位さま、四郎をお守り下されませ」

「分かった。分かった。もう行かれよ」

「伊賀の一族が、不穏な動きを起こしてしまいましたのは、何方どなたかさまが四郎の命を狙っているとの噂のせいでございます」

「今さら、せん無いことを申すな。もう行かれよ」

「二位さま、どうか、どうか、四郎の命をお助け下さい」

「そのようなこと、この尼が決めることではないわ。他の者へ頼むがよい」

「他の者とは、誰のことでございましょうや、新しい執権どのでございましょうか。この鎌倉を陰でべるお方は、二位さまでございましょう」

「何をいやる」

「無礼でござろう、伊賀の方。お下がりなされませ」

 老尼の傍に控える女房が声を荒げた。

 三条も、丸い手で伊賀の袖を引き、「いけませぬ。いけませぬ」と囁きかけた。

「あなたは、恐ろしいお人だ。夫を殺し、二人の息子も見殺しにした」

 いい放ってしまってから、思わず顔を伏せた伊賀の帽子もうすが風に舞った。


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