26話 『誰』なのか『何』なのか
全部、言ってやった。
こんなに言いたい放題言ったのは、初めてだ。
肩で息をするほどに体力を使うのは予想外だったけど、わたしは妙に心地いい疲労に包まれていた。
はたと気づいて、学長へ目を向ける。
「あの、その……わたし、逃げられると思えないので……ついていきます。無関係だと思えるほど……無関係な関係じゃないんです。こいつとは。こいつを、たぶん、初めて見た時から」
「――初めて? 初めて!?」
ミコトの姿をした『誰か』が、わたしの付け加えた部分を復唱する。二度目の復唱でヒステリーを起こしたような、悲鳴にも似た手で顔を覆い、よろめいて天を仰いだ。
これまで見せた反応と明らかに異なる激しさに気圧され、わたしは二、三歩後ずさりした。学長は険しい顔で身構えている。
「――待て。この、一瞬か? 確かにお前は、俺を見て……怯え……? この、一瞬で?」
弓なりに反らんばかりの背を戻して、誰かがわたしを目に映す。表情は、ない。
いや、わたし達に棘を向けた時の顔が無表情なら、今は虚ろな、あるいは憔悴したような絶望が浮かんでいた。
「軌道エレベーターで、俺を、認識していたのか……?」
「何を言ってるんだか、よく分かりたくもないけど……。じゃあ、あんたやっぱり、ミコトじゃ「質問に答えろ」
不安定な力ない歩きで、誰かが近寄ってくる。抑揚のない一言は、けれど、だからこそ、有無を言わさぬ威圧感を持っていた。
立ちすくんでしまったわたしを助けようと立ち上がる学長を、黒い蛇が絡みついて阻む。
目の前にそいつが来て、わたしの肩を揺する。その手は不気味なくらい力がない。
誰かは逆光で黒々とそびえ、空虚な瞳だけが浮かび上がるように見降ろしている。見上げるわたしは、それに軌道エレベーターを三人で見上げた時のことを思い起こして、
無性に、腹が立った。
「…………! そう! あの時、一瞬だけど、ミコトが別の誰かに見えた。何も変わってないはずなのに、雰囲気がまるで違って見えた」
「――そう、か」
蚊の鳴くような小さな声だったけど、誰かの口から発せられたのは、得心のそれだった。
静かな、冷たい光を湛えた瞳が、わたしを見据える。耐えがたい重圧が降り注ぐ。目を反らしたかったけど、嘘になってしまう気がして、歯を食いしばって睨み返す。
やがて、肩に乗った手が、重力に従って滑り落ちた。
「そうか……なるほど、こういうものなのかもしれないな……」
誰かが、わたしの腕を片手で引き揚げた。もう片手で手首の腕輪に触れる。途端、
「えっ……?」
誰かが触れた部分に集まって、球体になった。戒めはわたしの腕から落ち、乾いた音を響かせる。ころころとわずかに転がったそれは、再び蛇のように細長くなり、動き出す。
目にもとまらぬ速さでうねると、それは学長の手枷にくっついて一体化した。
「こいつの分はお前が持っていろ…………その胆力に免じて願ってみよう、八榊・磨理・ロッソが聡明であることを」
「……『八榊』でも『ロッソ』でも、好きにに呼べばいいじゃない」
誰かはそれに答えず、学長に一瞥をくれるとこの空洞の、『フラスコ』ただ一つの出入り口と逆側――つまり、袋小路の方――へ向く。
また、足元がぐらついた。見れば床の金属が工事現場の金属板みたいにカットされて、わたし達はそれに乗る形になっていた。外周がせりあがって、最終的に長方形の桝型に整えられる。
「座っておけ」
「えっ? っと!?」
ゴンドラの時と同じく前兆もないまま、それはフラスコの底へ滑り出した。早歩きより風を感じる程度で、人質を二人取っているにしても余裕のある進行だ。
癪だけど、言われた通りにお尻をついた。硬い。冷たい。膝を、抱えた。
「トヨスの鮪はこんな気分だったんだろうね」
今ので倒れた学長もビタビタと身をよじって、何とか胡坐をかく。
その様子でふと、縁をつけたのは学長が落ちないようにするための配慮かしらと思った。伸びあがりの部分は綺麗に九十度に見える角がついているのに、天辺は緩くカーブしていたから。
なんで、こういうところだけ……。
「そうか」脈絡なく得心いった声を上げて、誰かはわたしへ視線だけ寄越しながら「これが『面当て』か。そうだろう? ……うってつけの名前じゃあないか。なあ? 『ロッソ』」
瞬間、頭が煮え上がって――きっと顔まで『真っ赤』になった――わたしは……すぐに真っ青になったと思う。
「…………! あんた……! あんた……! あんた……『何』なの……?」
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