本編

第1話:彼は例外だっただけ

 初恋は女の子だった。その次も、その次も。多分自分は女性しか愛せない。そう思っていた。

 だけど現在の僕には夫が居る。娘と息子が一人ずついる。子供なんて絶対産まない。異性と結婚なんて絶対しない。異性愛主義の世界なんてクソ喰らえ。異性愛者なんて大嫌いだ。異性愛なんて気持ち悪い。そう思っていたはずなのに、今隣で眠っているこの男の寝顔が、たまらなく愛おしい。抱き寄せて感じる優しすぎる温もりに、涙が出そうになる。


 僕——安藤あんどうかいはレズビアンだ。本当はレズビアンと言った方が正しいのかもしれない。異性を愛して、苗字を鈴木彼の苗字に変えてしまったあの瞬間から、僕はもう、レズビアンではなくなったのかもしれない。

 じゃあ僕はなんなんだ。バイセクシャル?違う。男性に対する恋情なんて抱かない。彼だけは例外。そう。例外だとしか言いようがない。綺麗な言い方をするのなら『性別の壁を超えた愛』というやつだ。僕はその言葉が大嫌いだったけれど、皮肉にもそれ以外に上手く自分を言い表す言葉が見つからない。


 夫である鈴木すずき麗音れおんとは幼馴染だった。保育園からずっと一緒で、幼い頃から仲が良かった。


「かいちゃん、おおきくなったらぼくとけっこんしてください」


 初めてのプロポーズは小学校に上がる少し前。恋も愛も知らない幼い僕はそれを受け入れて、小指を結んで彼と約束をした。


 だけど、小学生になって話題が恋の話で持ちきりになり始めた頃に気づく。僕は彼よりも、クラスメイトの女の子の方が好きかもしれないと。そしてその頃には一人称や趣味についても突っ込まれるようになっていた。


「海ちゃんは女の子なのにどうしてなの?」


「えっ。だめなの?」


「変だよ。男の子みたい」


 変だと言ったのは、当時好きだった女の子だった。担任や親さえも直した方が良いと言ったが、麗音と兄だけはそのままで良いと言ってくれて、麗音はクラスメイトや担任を説得してくれた。その結果、僕の一人称についてとやかく言う人は居なくなった。


「ありがとう。麗音」


「どういたしまして」


「……あのさ」


「ん?」


 僕は彼に女の子が好きかもしれないという話を打ち明けようとした。だけど、幼い頃の約束を考えると言葉に詰まってしまう。彼は「話せないなら無理して言わなくて良いよ」と笑った。


「……麗音、僕のこと好き?」


「えっ。うん。好きだよ」


「それは……恋してるって意味?」


「恋……なのかな。まだよく分からないや」


「そっか……」


「……もしかして海は、誰かに恋してるの?」


「……恋って、相手が女の子でも、良いと思う?」


 打ち明けると、彼は一瞬目を丸くした。そして、一緒に調べようと提案してくれた。


「お母さん、パソコン借りて良い?」


「良いけど……何調べるの?」


「えっと……恋」


「恋?」


「女の子が女の子を好きになっても良いのかって、海ちゃんが」


 今考えるとこれはアウティングなのだけど、幸いにも、この時彼の母親は否定することも茶化すこともなく真摯に受け止めてくれた。そして、代わりに検索してくれた。


「お。良さそうなサイト出てきた。ほれ、海ちゃん。読める?」


「レズ……ビアン?」


「女性を好きになる女性のこと」


「僕はこれなの?」


「それはおばちゃんには分からないな。海ちゃんが決めることだから」


「僕が?」


「うん。自分が何者なのかは、人が決めることじゃない。じっくり考えて、悩んで、君が決めなさい。私が言えるのは、女の子が女の子を好きになることは間違いではないってことだけ」


「……好きで良いんだ」


「うん。良いんだよ」


「そっか。……ありがとうおばちゃん。麗音も」


「……どういたしまして」


 この時麗音が複雑そうな顔をしていた理由を知ったのは中学生になって半年くらい経ったある日の帰り道。クラスメイトの女の子に対する恋心を彼に打ち明けた時のことだった。


「……そっか。告白するの?」


「……うん。する」


「……そうか」


「うん」


「……海」


「うん?」


「……好きだよ」


 その瞬間、時が止まった気がした。振り返ると彼は俯いたまま立ち止まっていた。


「……それは、恋してるって意味?」


 俯いたまま、彼は頷き、そして泣きながらごめんと謝った。そしてこう続けた。


「俺……海の恋を応援出来ない」


「……うん。良いよ。応援してくれなくても」


「……聞いても良い?」


「うん」


「……俺じゃ駄目?」


「……僕は多分、男の人を好きになれないと思う」


 男性であり、自分に恋心を抱いている彼にそれを言うのは心苦しくて仕方なかった。だけど僕は、中途半端に期待させる方が酷だと判断した。彼は「じゃあ仕方ないね」と声を震わせて、泣きながら笑ってこう続けた。「ちゃんとフってくれてありがとう」と。

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