第四夜(前)
朝からとても良い天気の洗濯日和。
5月後半の土曜日、午前5時は既に薄日も射して、何とも清々しい。
妻に渡された洗濯籠を持って、息子と2人でベランダに出て、息子は1枚ずつ洗濯物を私に手渡す係で、私はそれを干す係だ。
妻はキッチンでおむすびを作っている。
昨夜、息子を寝かしつけた後、「ゆで太郎で朝食を摂ってから、お弁当を持ってどこかに行きましょう」と妻が言うので、急遽そういうことになっていた。
朝からお弁当を作っている妻の姿を見て、息子はもうワクワクが止まらない様子で、「どこ行くの?ねぇねぇ、どこ?」と必死に行き先を訊こうとしたが、私も妻も実際には行き先も何も決めてはいなかったので、妻は「おとうさんに訊いて」とはぐらかし、私がちょっと困ることになる。
「さぁてねぇ、どうしようか。そうだなぁ・・・鬼退治にでも行くかなぁ」
要らないことを言った。息子は即反応した。
「どこどこ?おにたいじって、どこに行くの?おにがしま?どこ?」
洗濯物を干し終わって、妻のお弁当作りをちょっとだけ手伝って(焼き上がった卵焼きと揚げ上がった唐揚げをパタパタと
時間は丁度6時半になろうかというところで、ここまでは全てが予定通りだ。
但し、玄関の呼び鈴も鳴らなかったし、桃も転がってはいなかった。
ゆで太郎のオープン時間きっかりに駐車場に到着し、まだお客の誰も居ない店内で3人ともかけそばと天ぷら盛りを注文した。
「エビ天美味いかい?」
私が尋ねると、息子は親指を立ててそれに答える。
「何処でそんな『グー』みたいなの覚えるんだい?俺、そんなのやらないけど」
妻が笑いながら「学校の友達じゃないかしら」と言う。
「へぇ、今の子ってアメリカ人みたいだな」
「あなた、それ、昭和過ぎ」
また妻が笑う。
蕎麦をすすりながら考える。さて、鬼ヶ島って何処に行けば良いんだろうか。
結論、妻の実家にしよう。妻は嫌がるかもしれないけれど、明日の日曜日も仕事は休みなのだ、最悪、泊まっても構わない。
妻が嫌がる理由は、日帰りだった場合、帰りは確実に酔っぱらった私を連れて、自分が運転して帰らなければならないから。
私は一番先に食べ終わって、2人が食べ終わるのを待ちながら、頭の中で作戦を練る。作戦と言うのは、今日こそどうやってお義父さんを打ち負かそうか、という作戦。
おや、桃太郎・・・ゆで太郎・・・鬼退治・・・打ち負かす・・・きび団子は無いけれどおにぎりのお弁当を持って・・・犬も猿も雉も居ないが妻と息子を連れて・・・1人足りないけど・・・ま、いっか・・・。私が桃太郎みたいになってきた。
2人が食べ終わったところで、ゴホンっと如何にもそれらしく咳ばらいをして見せてから、私は宣言する。
「いざ往かん、鬼ヶ島へ鬼退治だ、よ」
「やったー。おにたいじぃ」
息子のはしゃぎっぷりとは対照的に、妻は何かを察したようで、溜息交じりにこう言った。
「あなた、懲りないわね。本当に大丈夫?」
私は笑いながら「うん、大丈夫。今日は作戦がある。必ず打ち負かす」と答えた。
「いいけど、今日は泊まりましょうね。私はあんな山奥から夜中に運転は嫌よ」
本当に察しが良い妻である。
「大丈夫。今日は時間もまだ早いから、電車で行こう。それに明日も休みだから、たまには旅行気分で泊まるのも良いし。あ、今からお義母さんに電話してよ。今日3人泊まっていいか?って」
「別にマサキも一緒に泊まりたいって言えば、喜ぶことはあっても断られることはないけどね・・・。私は、またあなたがうちのお父さんにコテンパンにやられるのが心配なのよ。だってあの人、限度ってものを知らないんだから・・・。明らかに自分が強すぎて、普通の人がどの程度か分かっていないし、すぐ嵩に懸かってあなたに強要するじゃない。あなたもあなたよ、調子に乗って飲んじゃうから・・・」
妻の父親、つまり私の義父は恐ろしい程の酒豪だ。そして、何故だかそのことに誇りを持ち、男の価値はお酒の強さだと思っている節がある。
妻との結婚の承諾を貰うために、初めて妻の実家を訪れたあの日もそうだった。
「お、お嬢さんとは、け、結婚を前提に、お付き合いを、さ、させて頂いて居ります。つ、付きましては、今後の結婚の、ご、ご承諾を、頂きたく・・・」
「いいよ、いいよ、そんなに畏まらなくても。それより、今日はとても良い日だ、お酒はいける口ですか?飲みせんか?うちの娘で良ければ承諾も何も、貰ってくださるなら喜んで嫁に出しましょう。但し、私に飲み比べで勝ったらね」
お義父さんはニコニコしながらそんなことを言うものだから、私も軽い気持ちで「はいはい、喜んで」とばかりに請け負ったのが運の尽き。その翌日の昼前に気付いたときは、妻の実家の座敷の布団の中だった。
その後、半年で5回ほど、同じことを繰り返し、その都度コテンパンに飲み負かされて、とうとうお義父さんの承諾は受けないままに入籍、結婚してしまって現在に至る。
しかしお義父さんはそのことを怒るでもなく、今でも「私はまだ認めていないよ」とニコニコしながら言うだけなのだが、それがまた私にとっては釈然としない。
いや、私にも分かってはいるのだ。お義父さんが本気で認めていない訳ではなく、私を虐めたり貶める意図も勿論無く、単純に私を「息子」と思って可愛がってくれているのは。
私もお酒は嫌いではないし、お義父さんとの会話もそこそこに楽しいので、年に2、3度、10年間、翌日には必ず『もう2度とお酒は飲まない』と呻いているにも拘らず、全く学習能力も無いままに、本日も鬼退治宜しく、妻の実家に乗り込むことになった。
あれから10年も経っているという事は、お義父さんも、もう65歳。そろそろ衰え始めても良さそうなものなのに、一向にその気配はない。それはそれでとても良いことではあるのだけれど。
しかし、本日は10年間無策だった私が、初めて『策』を講じて戦いに挑むことになった。
「その名も『酒呑童子大作戦』っていうのはどう?」
「何それ?」
足柄峠の麓にある大雄山駅で電車を降り、妻の実家まで歩く道すがら、息子ははしゃいでピョンピョン跳ねる様に先を行き、妻に「危ないわよ」などと注意されながら、私は小田原駅で買った井上酒造の箱根山の1升瓶をぶら下げて、右のポケットにはウコンの力、左にはヘパリーゼを1本ずつ忍ばせている。これも小田原駅のドラッグストアで購入していた。「本当に大丈夫?」と呆れ半分、心配半分といったところの妻に逆に質問する。
「え?酒呑童子、知らない?」
「知ってるわよ、あたしは生まれも育ちも足柄よ。源頼光四天王のひとり、姓は坂田、名を金時、幼名をして金太郎と云う・・・」
何故か浪曲チックな調子を込めて妻が言うので、笑ってしまう。
「そうそう、それそれ」
「あ、」
妻が『分かった』と言う顔をした。
「ねぇねぇ、しゅてんどうじって何?」
先を歩いていたはずの息子が、いつの間にか私の傍らに戻って来て尋ねる。
「酒呑童子っていうのはね、昔丹波の国に居た、悪い鬼のことだよ。丹波って言っても分からないか。まぁ良いや、兎に角マサキ、今日の君は坂田の金時、つまり金太郎ってところだな」
「あれ、僕はももたろうじゃないの?」
ああ、そうだったっけ。色々めちゃくちゃになって来た。私が桃太郎気分になっていたが、倒す相手は酒呑童子で、息子は金太郎。きび団子は無いけれど、おむすびを持っていて、お供は居ないが、家族で妻の実家に向かっている。
そして妻が突っ込みを入れる。
「ゆで太郎でしょ!」
その先は
『じぃじは鬼で、しゅてんどうじなの?』
『いや、そうだけど、そうじゃない』
とか、
『おとうさんとおかあさんは、おじいさんとおばあさんってこと?』
『おかあさんがおばあさんって、どういうことかしら?』
とか、
『犬とサルとキジはどうするの?』
『おとうさんがサルで、おかあさんはキジ。犬はじぃじの家のゴン太(柴犬)ってことで良いんじゃない?』
とか、
『やっぱりじぃじは、鬼は鬼でも、良い鬼だよ』
『だったら、退治しちゃダメだねぇ』
などと、実にくだらなくて、それでいて何とも幸せで阿呆な家族の会話が続くこと30分ほど、とうとう鬼ヶ島(妻の実家)に到着した。
妻の実家の門扉に辿り着く50メートルほど手前で、息子に『じぃじには桃太郎の話も、酒呑童子も絶対に喋っちゃダメだよ』と念を押し、妻には『別にこのお酒に眠り薬は入ってないから』と言うと、妻は『当たり前でしょ』と笑った。
息子が走り出し、妻と私より一足先に玄関を開け、大きな声で挨拶をする。
「こんにちわぁー。じぃじ、ばぁば、鬼たいじに来たよぉー」
あーあ、言っちゃったよ。まぁ、良いけどね。
妻がクスクス笑っている。
家の奥からお義母さんの声がする。
「まあ、マサキ、よく来たわね。大きくなったねぇ。鬼退治って、なぁに?早く、お上がりなさい」
玄関まで出迎えに来てくれて、矢継ぎ早にしゃべるお義母さんのその脇をすり抜けて、息子はお義父さんの作業部屋に飛んで行った。
「じぃちゃんがお待ちかねだよ。アキラさん、遠いところご苦労様です。佳代子もアキラさんも、上がって上がって。離に3人分、お布団用意してるから。意外と早かったわね、何時に家を出てきたの?あ、お昼はまだ?もう食べたの?お蕎麦でも作ろうか?」
妻と私は顔を見合わせて、笑いを堪え、妻が答える。
「おかあさん、お蕎麦はいいや」
「あら、お昼は済ませてきたの?」
「お昼はまだだけど、お弁当持ってきたから。3人分しかないけど、おかずとおむすびを少し作り足して、皆で庭で食べない?」
「あらあら、そうなの?良いけど、それにしても可笑しな娘でごめんなさいね、アキラさん。実家に来るのにお弁当持ってくるだなんて」
私は妻を見やって、笑うしかない。
先週の金曜日夜10時55分頃、地元駅前のドラッグストアでの店員さんとのやり取り。
閉店直前のドラッグストアに駆け込んだ私は、ウコンの力1本持ってレジに向かった。
レジでは気の良さそうな中年薬剤師?が会計をしてくれたのだが、支払いを済ませて店を出ようとしたところで不意に話しかけられた。
「お客さん、今日は結構飲まれましたか?明日の二日酔い止めにウコンを飲まれますか?」
「え、ええ。そうですけど」
「それ、今度、是非、お酒の前にウコンを飲んでみてください。それから、飲んだ後にはヘパリーゼとかの肝臓水解物がお勧めです」
「へぇ、そうなんですか?」
「はい、ウコンはどちらかというと、肝臓を刺激して肝機能を高めます。肝機能を高めて、アルコールの分解を促進してくれます。それに対して肝臓水解物は、働き過ぎて疲れたり傷ついたりした肝臓を修復するアミノ酸だと思ってください。そうすると、何が起こるかというと、先にウコンを飲んだ場合、鞭打たれた状態の肝臓は、そこからいきなりガンガン働いてアルコールを分解し始めるので、例えば普段ビール1杯で酔っぱらう人が、おや?2杯飲んでも大丈夫だぞ、ってなる感じです。但し、それをやると、ついつい調子に乗って飲み過ぎちゃいますので、充分お気を付け頂きたいのですが。そして、働き過ぎた肝臓を元に戻してあげるために、飲み終わった後とか、お休みになる前なんかに、ヘパリーゼを飲むということですね。そうすると、疲れたり傷ついたり熱を持った肝臓が修復されるということですね。肝臓って、人間の臓器の中で、唯一再生可能な臓器なんですね。心臓とか肺とかは一度傷つくと、二度と元に戻りませんけど、肝臓だけは元に戻っちゃうんですよ。例えば、肝臓癌で、癌の部分を切除するとするじゃないですか。ちゃんと養生すれば、半年後、1年後には元の大きさに戻るそうです。あ、でもですね、元々健康診断で肝機能で引っ掛る人は、そもそもウコンはやめた方が良いです。肝臓を鞭打って無理やり働かせているみたいなものですから、刺激されて、その時は肝臓の機能は上がるのでしょうけれど、結果としては肝臓を傷めつけていることになっちゃうそうです。ところで、お客さんは肝臓、大丈夫ですか?引っ掛ったこと無いですか?」
「いえ、会社の健康診断では、どこも悪いところは無いですけど、今のところ」
「それは良かったです」
実に饒舌に話すその薬剤師と思しき店員の話には、非常に説得力があり、11時を過ぎて、アルバイトスタッフが閉店作業をしている最中だったが、ヘパリーゼも1本追加で購入した。
「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください。またのご利用、お待ちしております」
「いえいえ、こちらこそ。おやすみなさい」
その日はウコンの力とヘパリーゼをどちらも同時に飲んでみた。
確かに翌日、ちょっと飲みすぎたなぁと思っていたにも拘らず、思いの外スッキリとした朝を迎えることが出来た。
ということで、今日は先にウコンを飲み、最後にヘパリーゼを飲む予定だ。
そして息子をお義父さんと私の間に座らせ、お酌をさせる。更には、「おとうさんに1杯注ぐのに対して、じぃじには2杯注ぐんだよ」と、確り言い聞かせておく。
孫にお酒を勧められたお義父さんは、必ず何時ものペースを乱されて私より先に酔っぱらってしまう筈だ。
勿論、寝首を掻こうという訳ではない。お義父さんが酔っぱらって、先に床に就いてしまえば私の勝ちだ。
ちょっとだけニヤニヤしてしまう。
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