第二夜
翌日、午後7時頃に家に帰った私は、買ってきたオリーブオイルを妻に渡しながら「マサキは?」と訊くと、妻は「宿題やってる」と答えた。
「俺、先に風呂に入るわ」
「あら、そう。ビール用意しとけば良い?」
「ああ、お願い」
風呂は簡単にシャワーで済ませて、とっとと上がって寝間着替りのジャージとTシャツに着替えてキッチンに戻ると、キンキンに冷えたビールと冷奴の塩辛添えが用意されていて、正面の席には妻、右隣には息子が座って、私の風呂場からの帰還を待ち構えていた。
「あれ、宿題はもう終わったの?」
「うん、おわったよ」
「ご飯はこれからかい?」
この質問には妻が答える。
「それがね、今日は帰って来るなり珍しく、すぐに部屋に籠って宿題始めてね、途中でご飯食べて、あなたがお風呂に入っている間に『宿題終わった』って出てきたのよ」
「へぇ、偉いじゃないか」
「それが、何か可笑しいのよ、この子。昨夜、何かあった?」
私と息子は顔を見合わせて、プッと吹き出しそうになった。
「あなた達、ちょっと変よ」
そう言いながら、妻も何だか楽しそうだ。
「そうだ、お父さんがご飯食べ終わったら、今日はお母さんも一緒に、昨日の『あれ』やるかい?」
「うん、やろうやろうっ。おかあさんもっ」
「なぁに?あなた達、やっぱり変よ」
息子が塩辛をせがむので、少しだけ舐めさせると、満足そうに「うまい」と言ってもう一口せがむ。空かさず妻が「子どもには辛すぎるからダメよ」とくぎを刺す。
私は笑いながら「あと10年経ったら、一緒に飲もうな」と息子をなだめると、ここでも空かさず妻に突っ込まれた。
「10年経っても、まだマサキは飲んじゃダメでしょ。お酒は二十歳からなんだから」
息子の部屋で、文字通り3人川の字になって寝そべって、私が息子の左、妻は右に、お互い肩肘を立てて、両サイドから息子を見守る態勢だ。
やけにワクワク感満載の表情をしている息子に尋ねてみた。
「どうしたの?やけに楽しそうだね」
息子は私と妻を交互に見やってから、何故だか頭から布団を被って、その後チラッと目だけを出して「早くやろうよ。おかあさんもじゅんびして」と言う。
「じゃぁ、続きからやろうか」
「ダメ、さいしょから」
「えー、そうなの?」
「そうなの。おかあさんもいっしょだから、そうなの」
「おお、何か某公共放送の番組タイトルみたいだね」
妻は「だから、何なの、あなた達は?」とクスクス笑う。
「じゃぁ、おかさんといっしょ、いや、おかあさんもいっしょに、新しい昔話、最初から始りはじまりぃ。パチパチぱちぃ」
「イエーイ」
今度は妻がキョトンとして私と息子を交互に見比べた。
「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんは住んでいましたか?」
「すんでいましたっ」
息子がちょっと可笑しなテンションで元気よく答える。
「おかあさん、あのね、おとうさんの質問に答えなきゃ、さきに進めないんだよ。しっぱいすると終わっちゃうんだよ」
多分妻にはまだ、ちゃんと内容が理解できるほどには伝わっていない。私は続けた。
「ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きましたか?」
「行きましたっ」
「おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から何やら大きな桃が、どんぶらこどんぶらこと流れてきましたか?」
するとそこで、息子は妻の耳元に何やらコソコソと耳打ちをして「ね、言ってみて」と促した。
「じゃ、流れて来ませんでした」と、どうやら息子に言われた通りに妻が答えた。
「桃は流れて来ませんでした。おばあさんは洗濯が終わると、家へ帰りましたとさ。おっしまい」
息子がゲラゲラ笑いだして、妻は更にキョトンとしている。
「おかあさん、失敗すると、お話は終わっちゃうんだよ」
息子はまだ笑っている。
「でも、お手つきは3回までだから、あと2回だいじょうぶなんだよ。次は僕だからね」
妻はそこでやっと「ああ、なるほど」という表情をして、私の方を見て笑った。
「じゃぁ、流れてきたことにして、続き行くよ。お手つきはあと2回だからね。おばあさんは、その大きな桃を川から拾い上げましたか?」
「ひろいましたっ。次、おかあさんの番だよ」
「おばあさんは拾った桃を、家へ持ち帰りましたか?」
「持ち帰りました、で良いの、かな?」
息子は「うんうん」と言うように頷いて、話の続きを待っている。
「おばあさんは、持ち帰った桃を戸棚に仕舞って、おじいさんの帰りを待ちましたか?」
息子は待ってましたとばかりに、はしゃぎ声で答える。
「冷蔵庫にしまって、おじいさんの帰りを待ちましたっ」
「おお、そうだね。冷蔵庫に仕舞った方が、冷えていて美味しいもんね」
「?え、そんなのアリなの?」
「そうだよ、おかあさん。だってこれ、新しいタイプのむかしばなしなんだもん」
妙に自慢げに妻に説明する息子を見て、吹き出しそうになってしまった。
「夕方、おじいさんは山から帰って来ましたか?」
今度は妻が答える番だ。妻は少し考えてから
「おじいさんは、夕方ではなくて、連絡もせず夜遅くに帰って来ました、っていうのはどう?」
そう言って、私の方を見た。
どうやら私に対しての当てつけの様だ。
「仕方ないじゃないか、俺だって早く帰りたいのは山々なんだけど、残業の日だって、付き合いの日だってあるんだから・・・」
「いいのいいの、責めてるわけじゃ無いんだから。(笑)ただ、電話くらい、してくれても良いんじゃないかなって、ちょっと思っただけだから」
「分かったよ。次から電話する」
「おとうさん、おかあさん、ケンカはダメだよ」
「ああ、大丈夫。喧嘩じゃないよ」
笑いながら息子に答えると、妻も笑いながら息子の額を撫でてやっていた。
「では、気を取り直して。連絡もせず夜遅くに帰って来たおじいさんに向かって、おばあさんは何と言いましたか?」
あれ?何か話があらぬ方向に向かっている気が・・・ま、いっか。
「おかあさんなら何て言う?」
「そうねぇ・・・じゃ、マサキだったら何て言う?」
「うーん、ぼくなら『明日は早く帰って来てね』って言う」
「じゃあ、おかあさんもそう言うかな」
二人のやり取りを聞きながら、私は涙が出そうになる。そして、明日は残業も上司の誘いも絶対に断ろう、と心に固く誓った。
「どうしたの?おとうさん?」
「いや、何でもない」
「あなた、ちょっと面白い」
妻は少し意地悪そうにそう言うと、息子に向かって「ねぇ」と同意を求めるように声を掛けたが、息子にはよく分からなかったみたいだ。
私は苦笑しながら、続きを始める。
「おじいさんは、明日は早く帰ると約束しましたか?」
「しましたっ」
息子が嬉しそうに答える。
「良いの?あなた、そんな約束して?」
「え?俺?おじいさんの話だよ」
私は恍けて見せたが、直ぐに付け足した。
「でも、明日は絶対に残業もしないし、誘われても飲みにも行かないよ」
「あら、嬉しい。明日はおつまみ1品増やしちゃおっかしら(笑)」
マズイ、また涙腺が緩みそうだ。
「おとうさん、早く、次行こう」
息子に催促されて我に返る。
「おばあさんに約束させられたおじいさんは、お風呂にしましたか?ご飯にしましたか?」
「ちょっと、あなた。『約束させられた』っておかしくない?(笑)」
おっと、少々間違えた。しかしそこはまだ空気の読めない息子が助けてくれる。
「ご飯にしました」
「ご飯を食べ終わったら、おばあさんは・・・」
そこで息子が被せる様に言ってくる。
「おばあさんは、冷蔵庫からモモを取り出して言いました」
「え?おばあさんは何か言ったのかい?」
ちょっと間があって、息子はゲラゲラ笑い出しながら「違った、ちがった。おとうさんが何か考えて」と、私に責任を押し付けてきた。
「そうだなぁ・・・!おばあさんは叫びました。あれ?桃かと思って拾ってきたけど、桃じゃなくて、桃太郎じゃったぁ‼」
「ええーっ」
妻と息子は同時に声を上げる。
「あなたっ、桃太郎を冷蔵庫に入れてたの?」
「いや、俺じゃない、おばあさんが入れたんだよ」
「モモタロウ、カゼひいちゃうよっ」
盛り上がってきた。
「おじいさんは、驚いて桃太郎を受け取ると、台所から大きな包丁を持って来て、」
「やめて、あなたっ。切っちゃうつもりでしょう」
息子は笑いが止まらないらしい。
「え?やっぱりダメかい?」
「ダメに決まってるでしょ(笑)」
まだ笑いの止まらない息子は、もんどりうって足をバタバタさせている。
妻の制止を振り切るように、私は同じ件を話し始める。
「おじいさんは、台所から大きな包丁を持って来て、テーブルの上でその包丁をシャカシャカと研ぎ始めましたか?」
妻が少しホッとしたように、それでいて呆れたように「はいはい、研ぎました」と言う。
「その包丁は良く切れる様になりましたか?」
「なりましたっ」
息子も戦線に復帰した。
「包丁を研ぎ終わったおじいさんは、台所に包丁を戻して、お巡りさんに電話しましたか?」
妻が再びキョトンとして「どうして警察に電話するの?」と尋ねる。
「だってそうだろう。おばあさんは川で溺れていた桃太郎?か、どうかは知らんけど、兎に角、川で溺れていた子どもを助けて、家に連れて帰って来ちゃたんだから、警察に届けない訳にはいかないだろう。黙ってたら、誘拐罪で捕まっちゃうかもしれないし」
「そっかそっか、でも、冷蔵庫に入れちゃったけど、大丈夫なの?」
妻の返しに息子、速攻で流れ弾に当たって戦線離脱。ゲラゲラ笑った後、はぁはぁと息も絶え絶えになり、野戦病院に緊急搬送が必要かも。
「マサキ、大丈夫かい?」
上手く返事が出来ないらしいが、何とか首をコクコクと縦に動かし、意思表示を試みている様だ。私はそれを「僕のことは構わず前進してくれ」と受け止めた。
「そうだった、桃太郎は冷蔵庫で冷やしちゃったから、お湯を掛けて3分待とう」
段々自分でも何処へ行きたいのか分からなくなってきたが、こうなってしまっては仕方がない。
「おばあさんは桃太郎をお椀に入れて・・・いや、一寸法師じゃないから、お椀じゃ入らないなぁ。・・・大きな鍋に入れて、お湯を掛けて蓋をして、3分待ちましたか?」
愛する息子の屍を乗り越えて、私は妻に質問した。
「どういうこと?」
「『どういうこと?』じゃなくて、3分間待ちましたか?」
「じゃ、待ちました」
「3分待って蓋を開けると、そこには、鍋から生まれたぁ、ゆで太郎ぅ」
「それは、お蕎麦屋さん!」
そう言って妻もゲラゲラ笑い出した。
どうやら、2人とも本日の戦線復帰は難しそうである。
「さて、じゃあ、今日はここまでにしようか」
まだ2人はもだえ苦しんでいる。
私は妻と息子を部屋に残して、扉から出ようとした時、「あした、また続きだよ」と息子が言った。
「良いよ、明日は真っ直ぐ帰るって、おかあさんと約束したから・・・おやすみ」
「マサキぃ、良かったねぇ。おとうさん、明日も早く帰って来るって。おかあさんも楽しみぃ」
家族って良いなぁ。また泣きそうになった。
10分後、私がキッチンで氷を入れたグラスにハイボールを作っているところに妻もやって来て、「私も一杯貰っていいかしら?」と言うので、「良いよ」と応じて今作ったばかりのグラスを渡して、私は再度、自分の分を作る。
「もう寝たの?」
「うん、笑い疲れたんじゃない?あっという間だったわよ(笑)」
チビリとグラスに口を付けてから「何かおつまみ出しましょうか」と言う妻に、私も頷いてから「簡単でいいよ」と返事をすると、3分後にチーズとリンゴにサラミとキュウリがテーブルにやって来た。
「で、明日は続きからやるの?」
「そうだねぇ、何も考えてはいないんだけど・・・」
「ゆで太郎から?」
「・・・あ、ああ、そう言えば、そんな話で終わったんだっけ?」
「なに何?本当に先も何も決まってないの?」
私は笑いながらリンゴとチーズと爪楊枝に刺して、「別にリンゴ太郎でもチーズ大王でも何でも良いんだよ」と言って、口に運んでパクリと食べる。
「なにそれ?私はゆで太郎、好きよ。安いし、美味しいし」
妻が変に真面目顔でそんなことを言うので、私は今口に入れたリンゴとチーズを吹き出しそうになった。
そういえば、妻の「ゆで太郎」デビューはつい一年ほど前だった。
何故だか知らないけれど、急に「立ち食い蕎麦に行ってみたい」と言い出した妻と息子を連れて行ったのがゆで太郎だった。
『なんだぁ、立って食べなくて良いのね』と言う妻に、本当に立って食べなきゃいけないのは駅ナカと駅前くらいで、郊外店は大概座れるレイアウトになっていることを説明して、席を確保してから食券を買って、カウンターで番号札と引き換えてから出来上がりを待つことを教えた。カウンターに貼り付きで待っていると、他のお客さんの邪魔になるので、お冷を注いで、自分の番号の呼び出しがあるまでテーブルで待つ、という作法もちゃんと注意事項として。
妻は言う。「あなたばっかり、いつもお昼は美味しいもの食べているって、ずるい」
いやいや、それは違う。毎日蕎麦ばかり食べている訳ではないし、のり弁当の日だって菓子パンの日だって有りますよ。そりゃあ給料日当日は洋食屋のランチを食べに行ったりもするけれど、それでも「家で君の作ってくれた料理が一番美味しいよ」と、いつも思っている。料理の出来ない私としては、家に居て自分で美味しいものを作って食べることの出来る妻の方が、余程ずるいと思うし、それ以上にいつも感謝のしっぱなしなのだが。
それにしても、ゆで太郎を絶賛する妻は、何となく可愛らしい。そう言えば、ずっと以前、まだ結婚前だった頃、初めて吉野家に連れて行った時も、偉く感動してたっけ。『つゆだくって、サイコー』とか。
そんな事を考えながらふと、妻に目を遣ると、妻もこちらを見ている。
「あなた、ちょっと、何ニヤけてるの?(笑)」
「え?ニヤついてた、俺?」
「うん、ニヤついてた。何か思い出し笑いみたいに」
どうやらお見通しのようだ。
「そうだねぇ。昔のことを思い出してた。君を初めて牛丼食べに連れて行った時のこと」
「やだぁ、なにそれ(笑)」
それから、他愛もない昔話でハイボールをもう一杯飲んで、とてもいい気分で床に入った私は、「片付けをしてから私も寝るわ」と言った妻がやってくる前に気を失っていた。
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