尾八原ジュージ

 大学四年の秋、必須科目を落とすことがいよいよ決定的となったタイミングで、僕は逃亡生活を始めた。何かあてがあったというわけでもなく、ただただ煮詰まって逃げ出したくなっただけだった。

 留年のことを親に告げるのも、予定していた時期に卒業できなくなったことを内定先の企業に連絡することも、何もかも当時の僕には大事すぎた。だったら最初から勉強をしておけという話なのだが……ともかく僕は逃げた。

 授業をさぼる代わりに、アルバイトの予定はしょっちゅう入れていたので、軍資金はあった。都内から普段乗らない甲府行きの電車に乗り、特急あずさに乗り換えて松本へ向かい、そこからは目についた電車や高速バスを乗り継いで、いきあたりばったりにでたらめな蛇行をしながら、日本列島を徐々に北上していった。

 だからその男性に出会ったのが何県だったのか、定かではない。


 電車の中だった。僕はいかにもローカル線じみた、向かい合わせの四人シートのひとつに腰かけて、ぼんやり窓の外を眺めていた。山の端の向こうに日が入りかけていた。

 車内は空いていて空っぽだった。東京の人混みに慣れた僕には、自分以外の人類が死に絶えてしまったみたいに思えた。

 何駅だっただろうか、そのうち扉が開いて、中年男性が一人乗り込んできた。彼はこの空いている車両で、なぜかまっすぐに僕のいる席めがけて突進してきた。そして僕の真向かいにどっかりと腰かけたのだ。

「あああ。よかったぁ、人がいた。よかった」

 と、大声を出す。怖かった。明らかにおかしなひとに絡まれてしまったと思った。

 携帯をいじっているふりをしながら、ぼくはこっそり彼の顔を見上げ、固まった。その表情があまりに切羽詰まって見えたからだ。異様に目を見開き、辺りをキョロキョロと見回している。と、目が合ってしまった。

「お兄さん、学生さん?」

 男が僕に尋ねた。

「あっ、はい……」

「悪いね、突然変なのが乗り込んできちゃって」

 変なの、とは明らかに男を指していた。そうですね、とも言えず、僕は「ははは」と愛想笑いを返した。

「おじさん、一人が怖くってね。時々あるんだ、こういうとき」

 男は言い訳をするように言った。

「アッ、そうなんすか。へぇ……」

 他になんと返しようがあろうか。その間にも男は窓の外だの、車両の向こう側だのに視線を配っており、僕の頭の中には「逃亡犯」という言葉がちらつき始めた。こいつ、交番に顔写真が貼られている手合ではないだろうな……僕は日頃、その掲示板をほぼスルーしてきたことを後悔していた。

 自分は今、犯罪者と相対しているのではないだろうか。電車はすでに走り始め、逃げ場はない。車両にいるのは僕たちふたりだけ。鞄に手を入れてこっそり携帯を握りしめた。

 そのとき、男が突然こんなことを言った。

「水の落ちる音がしないか?」

 言われて耳を澄ましたが、それらしい音は聞こえなかった。電車内にトイレはあるが、この車両ではない。ぼくも液体の類は持っていなかった。

「しませんけど……」

「そう? 本当に? そうか……」

 男は僕の正面の席にへたり込んで、ほーっとため息をついた。「悪いね、おじさん、気が小さくてね……」と気が抜けたような声で言う。僕はどうしていいのかわからないまま「はぁ」と相槌をうった。

「昔はこんなんじゃなかったんだよ」

「はぁ」

「もっと元気でさ、やる気もあって、いっぱし頭もいいつもりでさ……」

 そう言いながら男はくたびれた鞄を漁り、中から度数が高めの缶チューハイをひとつ取り出した。まさか水音って、それがチャプチャプ鳴ったんじゃあるまいな……と疑う僕の前で、男はプルトップを開けて飲み始めた。

 さては酔っぱらいか。犯罪者よりはましかもしれないが、厄介なものに絡まれてしまった……などと考えつつ、僕は黙りこんでいた。機嫌を損ねて暴れられたりしたらことだ。次に電車が停まったら降りようと心に決めながら、時が過ぎるのを待つことにした。

「おじさん、店を持ってたんだよ。飲食店。一時は三軒も店舗があってね。働いたなぁ。忙しかったけどあの頃は平気だった。よかったなぁ」

 よかったよかった、と言いながら男は酒を飲む。その姿は、とても羽振りのいい経営者には見えなかった。着ているシャツはよれよれで首元が黒くなっているし、ズボンの膝は擦り切れている。ただの酔っぱらいの与太だと思って、真偽は気にしないことにした。男は話し続ける。

「結婚して、家建てて、子供が生まれてね。かわいかったよぉ、娘」

 むすめ、と言いながら、また突然背中を伸ばして辺りを見回した。その様は誰かを探しているようだった。どちらかといえば会いたくない人物、避けねばならないような相手を。

 ひとしきり辺りを見回すと、男はまた缶チューハイをあおり、話の続きを始めた。

「私立の幼稚園に入れてさ、こんなこたぁアレだけど、ふふ、愛人もいたの。お金があったんだよ、そのときは。でもなくなっちゃった。おじさんが馬鹿だったから。色々あってね、ぜーんぶなくしたの」

 だから車にさ、と男は言った。

「家族で車に乗ってさ、海に飛び込んだんだ」

 その声には、話の真偽などどうでもよくなるほどの、ぞっとするような暗さが籠もっていた。

「だって、つらいって嫁さんが言うんだもの。こんな生活は死ぬほどつらいって。おれもつらかった。明日が怖かったよ。だから夜中にさ、嫁さんが寝てる娘を抱っこして助手席に座って、真っ暗な海にさ、埠頭から、こう」

 どぼーんと車ごと、と男は呟いた。

「でも気がついたら病院でさ、生きてた。おじさんひとり生き残っちゃった。無我夢中だった、何があったかよく覚えてないって周りのひとたちには言ったけどね、覚えてるよ。おれ、死ぬのが怖くなってさ、とっさにシートベルト外して窓を割ったんだ。窓の外は水でいっぱいだった。助手席で嫁さんが、おれが逃げ出すのを見て何か言ってた。声が裏返っちゃって何言ってるかわかんなかったけど、顔は覚えてる。たぶん嫁さんは裏切り者って言ったんだ。あの顔を今でも夢に見る……」

 男の手から缶チューハイが落ちた。ほとんど空っぽになった缶が、はっとするほど高い音を立てて床を転がった。

 眠ったのかと思ったが、男は目を開けていた。濁った瞳がこちらを見ていた。

「お兄ちゃん、電車の中にはほんとに誰もいないかい?」

 男の唇が動いた。「見えないか? ずぶ濡れの女の人とちっちゃな女の子」

「だ、誰もいませんよ」

「ああ、そう……」

 男は安堵したらしく、ほーっと息を吐いた。

 電車はまだ止まらない。山間部の一駅間はやたらと長い。ゴォッと音がして辺りが暗くなった。トンネルに入ったのだ。

「まだ死にたくないんだ」

 地を這うような声が、僕の正面の座席から響いてきた。

「死ぬのが怖くて怖くて……いっぺん海の中に落ちてごらんよ。怖いんだ、本当に怖い。死ぬのは……だから家族から逃げてる。ふたりはおれを探してる。連れて行こうとするんだ。もちろん愛していたよ。本当に愛していたんだ。でなきゃ心中なんて考えなかった。でも怖いよ、死ぬのは本当に怖い。お兄さんもだめだよ、滅多なこと考えちゃ」

 ゴオッと音がして、電車がトンネルを抜けた。コンクリートで固められた山肌が窓のすぐ外に見えた。

「いっぺん、追いつかれたんだ」

 男が窓の外を見た。その声はかすれている。

「▲▲の民宿で寝ていたら、他に誰もいないはずの部屋の隅から、嫁さんと娘がすうっと出てきたんだ。そのときは嬉しかったよ。でもふたりの顔を見ているうちにだんだん息が苦しくなってきて、死ぬ、死ぬと思って……気がついたら自分で自分の首を締めてた。怖かった。やっぱり死ぬのは……だから逃げて」

 突然、男はがくんと首を垂れた。ブゥーという鼻息が聞こえた。今度こそ寝入ってしまったらしい。

 酔っぱらいめ……僕は長々とため息をついた。正直、ほっとしていた。これ以上陰惨な話を聞くのが我慢ならなかった。

『まもなく、○○に停車いたします……』

 アナウンスが流れる。行く先に見える駅は明らかに無人で、街の灯りも遠い。こんなところであてもなく下りたら詰むなと思い、この次の駅まで耐えることにした。幸い、男はまだ眠っている。

 やれやれ、酔っぱらいの戯言を聞かされてしまった……僕は心の中で、自分に言い聞かせるように唱えた。戯言だ。そう考えなければ暗い気持ちが背中に覆いかぶさってきて、押しつぶされてしまうような気がした。男のいびきだけが聞こえる無人の車両の隅から、亡くなった女性と女の子の亡霊が、本当に現れるような妄想をしてしまう。

 カラカラ、と音をたてて空き缶がまた転がってくる。拾おうかな、と立ち上がりかけたそのときだった。

 眠っていたはずの男がばっと立ち上がった。血走った目を見開いて、

「あっ、あっ、あっ、来た。いる。いるよ。ママ、リコ」

 男は先頭車両に続く扉の方を見ていた。

 僕もそちらを見たが、誰もいなかった。男は彼にしか見えない幻を見ているに違いないと思った。そのときだった。

 突然潮の匂いが車内に満ちた。

 プシューと音を立てて電車が停車した。

『○○〜、○○です』

 ドアが開く。男は荷物を手に、転がるように下車していった。迷っているうちに電車はふたたび発車し、僕はまたひとりぼっちになった。

 もう日が暮れかけていた。今夜はどうしよう、と考えた。もう夜になる。どこかで宿を見つけなければならない。

 それとももう潮時かもしれない、とも思った。いつまでも逃げ続けることなんかできるものだろうか。仮にそれができたとしても、いつかあの中年男のようになって、ありもしない幻に怯えて暮らすことになりはしないだろうか……。

 それにしても、さっきの匂いはなんだったんだろう。気のせいかと思いきや、まだ潮の香はうっすらと漂っていた。ひどく厭な感じがした。車両を移ろうと、僕は立ち上がった。

 そのとき、背筋がすっと寒くなった。

 先頭車両に続くドアの前の床が光ったのだ。そこには、さっきまでは絶対になかったはずの大きな水溜りができていた。

 僕は瞼の裏に、さっきまでそこに立っていたかもしれない、ずぶ濡れの母子の姿を描いた。

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