氷取沢 圭

第1話

 あの日、春雨に僕は踏み込んだ。

 心做しか雨粒は温かく、長く凍えた心を癒していくようであった。

 濡れて張り付いた衣服も不快感はなく、ただただこの場所にずっと居たいと思うばかりだった。

 これは当たり前と笑われるかもしれないが、雨の勢いは一定ではない。長い時間を雨と過ごしてわかったことだ。火を見るより明らかに激しさを増すときもあれば、力なく降り注ぐときもある。

 雨とは、そういうものなのだ。

 五月雨も夕立も秋霖も、離れて見れば同じ雨に見えるが、我が身で浴びると微妙な勢いの差異に気がつく。

 もちろん、雨が僕に牙を剥くときもある。

 これは冬の出来事だ。

 その日は優しい雨が降ると天気予報が告げていた。

 しかし僕に降りかかったのは優しい雨なんかでは無かった。

 例えるならそれはスコール。

 強い風が敵意を持って僕に吹きつける。

 その風に乗った鋭利な雨粒が、頬を、脇腹を、喉元を、足首を、そして何より心を切り裂いた。

 初めて雨と決別することを考えた。

 しかし次の日、驟雨は優しい雨に変わっていた。

 やっぱり雨粒の温もりが心地よくて、僕は離れることをやめた。

 とにかくこのように、雨は表情をコロコロ変えるものなのだ。

 そして先日、僕は新しい雨を見た。

 赤い雨だった。

 誰かの鮮血みたいに真っ赤な雨。

 加えて桁外れの勢い。

 地面が刻々と削られていくほどの。

 まるで終末を具現化したみたいな、そんな雨。

 しかし僕は無傷だった。

 この雨は恐らく、僕に敵意を持っていなかった。

 だから僕に雨粒は当たっていなかった。

 そして雨は何日も降り続ける。

 この世の不条理を憂いて泣き叫ぶように、強く、悲しく、振り続ける。

 いつしか僕は疎外感を抱いていた。

 雨が僕を避けているように覚えたからだ。

 一歩だけ踏み出して、雨を浴びてみた。

 酷く、冷たかった。

 あの日、僕を包み込んだ温かい雨の面影はそこに無かった。

 なんだか僕は悲しくなって、その雨を浴び続けた。

 雨はそれを嫌がっていたのかもしれない。

 或いは僕がそうすることを期待していたのかもしれない。

 ひとつ確かなことは、雨がやがて弱まったことだけ。

 赤色はすっかり抜け落ち、元の透明な雨粒に戻った。

 勢いも弱まり、僕は知っている優しい雨が帰ってきたことに歓喜した。


 こうして色んな雨を経験して、少しだけ考えることがある。

 いつかこの雨が止んだとき。

 そんないつかが訪れたとき。

 空はどれだけ澄んでいるのだろうか。

 心に生まれたのは好奇心。

 僕はこの雨が止むのを見てみたい。

 いつかこの雨を晴れに変えられるように、僕はなりたい。


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氷取沢 圭 @hitorizawanoshisya

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